ドゥブロヴニク旧市街のメインストリート: ストラドゥン(プラツァ通り)

ドゥブロヴニク旧市街の真ん中を南北に分割するメインストリート、ストラドゥン。日本のガイドブックなどでは、「プラツァ通り」という名称で知られています。

今回は、このストラドゥンにまつわる歴史やエピソードをご紹介します。


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ストラドゥン(プラツァ通り)とは

ストラドゥンはドゥブロヴニク旧市街の真ん中を東西に走り、西のピレ門と東の旧港をつなぐ、約 300 m のメインストリート。

1400 年代に敷き詰められた石灰石の歩道は、その後数百年に渡る人々の通行によってピカピカに磨き上げられ、今では鏡のように美しい輝きを放っています。

ストラドゥンは、両サイドに統一性のある建物が並んでいるのが特徴で、他の街とは異なる独特の雰囲気をかもしだしています。
これが現在のような姿になったのは、1667 年のドゥブロヴニク大地震の後のこと。

ドゥブロヴニクのプロモーションでもよく登場するこの短いメインストリートは、「一度は訪れるべきストリート」ランキングにも登場している、ドゥブロヴニクを代表する観光スポットでもあるのです。

ストラドゥンの歴史

これまで長く信じられてきた定説によると、ストラドゥンは、 13 世紀ごろまでは陸地ではなく、浅い海峡だったそうです。
そして、この海峡を挟んで、両岸に 2 つの集落があったのだとか。

北の陸地側にあったのは、南スラヴ系クロアチア人の居住地ドゥブラヴァ(Dubrava)。
南側の島ラウス(Laus)には、近隣の街ツァヴタットから移住してきた、ローマ・ギリシャ系の避難民がつくった集落。

この 2 つの居住地は互いに友好関係にあり、年月の経過とともに徐々に一体化、最終的には 1 つの街、現在のドゥブロヴニクとなりました。

ストラドゥンの埋め立てが始まり、現在見るような道となったのは 11 世紀から 13 世紀初頭にかけてのこと。

埋め立てられ道となった当初は、現在のストラドゥンの特徴でもある、統一性のある建物が並んだ通りではなかったそうです。
むしろ、両脇の建物には思い思いの装飾が施され、アーケードもあり、今とは全く異なる景観だったのだとか。

また、もとが海峡で、海抜の低い場所にあったストラドゥン。
まとまった雨の度にすべての雨水、排水がどっとストラドゥンに流れこんで溢れ出し、お世辞にも衛生的だとは言えない状態だったとも言われています。

中世のヨーロッパに壊滅的被害をもたらした黒死病の影響もあり、ドゥブロヴニク政府は上下水道の整備にはかなり力をつぎ込んだそうです。

さて、現在のストラドゥンは、高さ、外観、扉や窓など、非常によく似た、あまり装飾性のない建物が並んでいます。

1 階には、同じデザインの、半円形のアーチついたドアやショーウィンドウ。
横道には通用口があり、厨房や倉庫にはこちらから直接入れるようになっています。
店内は思い思いに装飾されていても、外観にはほとんど差がありません。

そして実は、この統一性、外観だけではないのです。
以前は、これらの建物は、建設当時、1 階に店舗、2 階に応接室、3 階以上に書斎やベッドルーム、一番上のロフトにキッチンと、内部の構造まで統一されていました。

キッチンを上に持ってくるのは不便そうに聞こえますが、なぜこのような形になっていたのでしょうか?

実はこれ、火事の被害を最小限に食い止める工夫。上階、そしてその横の建物へと延焼が広がることがないよう、一番出火しやすいキッチンを最上階に持ってきているのです。

ドゥブロヴニク旧市街の建物がこのような作りになった理由は、かつてドゥブロヴニクが経験した未曾有の悲劇にあります。

1667 年、当時は独立国家だったドゥブロヴニクは、クロアチア史に残る、記録的な大地震に襲われました。
クロアチアは比較的地震の多い国。都市が完全に壊滅するような甚大な被害をもたらした地震も、少なくとも 2 回経験しています。
ドゥブロヴニク大地震はそのうちの 1 つなのです。

この時の地震では、ドゥブロヴニクからストンにかけて、非常に広範な地域で大きな揺れがありました。
震源地に近かった旧市街は、実にその 4 分の 3 が倒壊。
更に、その後発生した火事により、崩落を免れた建物の多くが壊滅的な被害を受けました。

正確な死傷者数は不明ですが、海洋大国としてアドリア海を制したドゥブロヴニク共和国は、これをきっかけに徐々に衰退。
地震前の栄華を取り戻すことはついになく、最終的に 1808 年、ナポレオン率いるフランス帝国軍に屈し、独立国としての歴史はそこで終わることになりました。

現在見られるドゥブロヴニク旧市街は、大部分がこの大地震の後に再建されたもの。
町の景観はこれを機に大きく変わりました。
また、貴重な資料の多くが焼失したため、今では、地震前のドゥブロヴニクの姿を完全に伝える資料はほとんど残っていません。

そのため、ドゥブロヴニクでは、ドゥブロヴニク大聖堂の聖ヴラホ像やプリェコ・パレスなど、地震前から残る遺物は特に大切に保護されています。
ストラドゥンの石畳もその一つ。
地震前のドゥブロヴニクから残る、街の大事な財産なのです。

しかし、そんなストラドゥン、そして旧市街はが経験した悲劇は、この地震だけではすみませんでした。

弾痕も生々しいクパリの Grand Hotel 跡

クロアチアがユーゴスラヴィアからの独立を宣言し、独立を賭けた戦争が勃発した 1990 年代初頭。
世界遺産であり、実質的に非武装地域だったドゥブロヴニクは、1991 年から 1992 年にかけて、セルビア・モンテネグロ連合軍に包囲され、激しい砲撃を受けました。

旧市街を中心に、周辺地域は連日の攻撃にさらされ、歴史的建造物の多くも被弾、破損。
中には炎上したものもありました。
現在でも、注意して見ると、旧市街の歴史的建造物の多くにこの時の弾痕がそのまま残っていることに気づきます。

激しい砲撃で多くの建築物が破損し、黒煙があがるストラドゥンの痛々しい姿は、戦争写真記念館(War Photo Limited)やスポンザ宮殿、スルジ山のインペリアル要塞にある戦争博物館などで確認することができます。
機会があればぜひご覧になってみてください。現在の街が美しい分、深く考えさせられる内容になっています。

現在は、当時が嘘のように平和で美しいドゥブロヴニクですが、この姿は、地元住民のたゆまぬ努力があって、初めて今の姿に戻ることができたものなのです。

ストラドゥンとヂル

もしドゥブロヴニクでゆっくりする時間があったら、ストラドゥンを見渡せるカフェに陣取って、道行く人を眺めてみてください。
もしかすると、地元住民らしき人の、面白い行動パターンに気がつくかも。

地元の皆さん、特に比較的落ち着いた年齢の方々が、知人、友人と連れ立って、ストラドゥンを延々と行ったり来たりしていることがあるのです。

実はこの行動、「ヂラヴァニェ(điravanje)」または「đir(ヂル)」と呼ばれる、ドゥブロヴニク伝統の行動様式。
「行動様式」と言っても、要するに特に目的地もなく、行ったり来たりして、出会った人と挨拶やおしゃべりをするだけなのですが、ポイントはこれをストラドゥンでやるところにあります。

実はこのストラドゥン、単なるメインストリートではなく、伝統的に、社交の場と考えられてきました。

皆がここでウロウロしにくるので、ここをウロウロしていれば多くの人に出会うことができる、という仕組みです。
ちょっとした立ち話を通して近況を確認しあったり、旧交を温めたり、新しい誰かに出会ったりできるようになっているんですね。

つまり、ドゥブロヴニクにおけるストラドゥンとは、数百年にわたって利用されてきた、通りの形をした街の人全員の溜まり場のようなもの。

以前は、それこそ商談からコネ作り、子どもの遊びからデートまで、何かと言うとストラドゥンでのお散歩を通して行われていたのだとか。
ここでは、「ストラドゥンに散歩(=ヂル)に行かない?」というのは、「コーヒー飲みに行かない?」という問いと同様、あるいはそれ以上に、言葉以上の意味をもつ特別な質問なのだそうです。

「ストラドゥン」それとも「プラツァ」?

ストラドゥンは、日本のガイドブックでは「プラツァ通り」と紹介されていることが多いようです。

この「プラツァ通り」というのは公式名称。地図や標識などの表示はこちらです。ラテン語で「道路」を意味する「Platea(プラテア)」が語源だそうです。

これに対し、「ストラドゥン」というのは通称。地図にも標識にも載っていません。
しかし、地元の人にとってはこちらの方が馴染みのある呼び名。
プラツァ通りという名称はまず日常では使用されません。

なお、面白いことに、ラテン語の「プラツァ」に対し、この「ストラドゥン」の語源はイタリア語。
「幅の広い道路」を意味する「Stradon(ストラドン)」が元となっているそうです。
ストラドゥンは、実際にはさほど大きくはないので、からかい半分に「でかい道」と呼んだのが始まりではないかと言われています。

ちなみに、クロアチアおよびその周辺地域では、「上の方の曲がり角」だの「(坂の)上」だのという直球勝負な名前をよく目にします。
地元の方も自分達でその直球ぶりを冗談のネタにしていることがあるので、上記の「でかい道」説、個人的には非常にありそうな話のような気がします。

ストラドゥンの見どころ

さすがメインストリートなだけあり、ドゥブロヴニク旧市街の見どころの多くがストラドゥン、およびその周辺に集中しています。

ピレ門が起点となる西側には、南側にオノフリオの大噴水、その奥には現在はレストラン・クラリサとなっている元聖クララ女子修道院。

オノフリオの大噴水の対面には城壁のメインエントランス、そしてフランシスコ会修道院
この修道院の入り口を入ったところにフランシスコ会修道院付属薬局(日本のガイドブックでは「マラ・ブラーチャ薬局」との表記が一般的)。

この先に進むと、ドゥブロヴニクのアイコン的カフェの一つであるカフェ・フェスティバル
このカフェ・フェスティバルのある建物は、もともとはドゥブロヴニクの名家、ケルシャ家のお屋敷、ケルシャ・パレス。
現在はカフェの名前が示す通り、ドゥブロヴニク・サマー・フェスティバルの事務局となっています。

ストラドゥンを東に向かってしばらく進むと、南側(ルジャ広場に向かって右手)に道幅の広い横道が見えてきます。
これがシロカ通り(Široka Ulica)。
こちらも直球な「広い通り」というそのままの名前に、「ストラドゥン」に近いネーミングセンスを感じます。

こちらにあるのが、ドゥブロヴニクを代表する高級レストランの一つ、洗練されたシーフード料理で有名なプロト(Proto)

道の反対側、アントン通り(Antuninska Ulica)を少し登った左手には、ドゥブロヴニク包囲戦の写真を展示した戦争写真記念館(War Photo Limited)、その一つ先のナリェシュコヴィチ通り(Nalješkovićeva Ulica)には大人気デザート屋さん、ジェラートが美味しいドルチェ・ヴィータ(Dolce Vita)

さらに一つ先のクニチュ通り(Kunićeva Ulica)には、アドリア海名産の紅珊瑚を使用した高品質ジュエリーの工房兼店舗、クララ・ストーンズ(Clara Stones)(※リンクをクリックするとお店のホームページにジャンプします)。

こちらはミラノ出身のイタリア人オーナーのお店で、ラグジュアリーなシーンでもカジュアルなシーンでも活躍してくれそうな個性的な一点もののアクセサリーを、付属の工房で職人さんが手作りしています。

メインとなっているのはアドリア海産の紅珊瑚ですが、日本近海で取れる色味の異なる紅珊瑚、それにトルコ石や瑪瑙なども使い、小さなブローチのようなものからインパクトのある大物まで、眺めるだけでも楽しい品揃えです。

南側、シロカ通りの一つ先、ニコラ・ボジダレヴィチュ通り(Ulica Nikole BožIdarevića)にかけて、スーパーなどでは意外と手に入らない、クロアチア産のオリーブオイルを扱う専門店、ウイェ(Uje:こちらも「油」というわかりやすい名前。リンク先は Uje グループのホームページです)。

この通りをそのまま奥へ進めば、セルビア正教会に出ます。

ストラドゥンをさらにルジャ広場方向へ進むと、北側、ヴェトラニチュ通り(Vetranićeva Ulica)沿いにあるのが、お手頃価格でグルメバーガーを楽しめるバーガー・タイガー(Burger Tiger)
地元の若者にも人気です。

脇道に入らずに進めば左手にお菓子屋さん、ボンボニエーレ・クラシュ(Bombonnière Kraš)

こちら、クロアチアの大手菓子メーカー、クラシュ(Kraš)のお店。大人気のクロアチア土産、ヘーゼルナッツの風味がたまらないチョコレート、バヤデーラ(Bajadera)を始め、キャンディやチョコレートを 1 個から(1 箱ではなく、1 個)でも購入できる素敵なお店。
バラ買いで味見してからお土産用にまとめ買いするのが賢い。

ストラドゥンをさらに進み、ジュダ通りに入ると(Žudioska Ulica) ユダヤ教のシナゴーグ。
この辺りのストラドゥン、南側にはカフェ、レストランのパラソルが並び、通行人ウォッチングに最適な一休みポイントになっています。

そしてこのあたりから広がっているのが、ストラドゥン東端のルジャ広場。
広場の真ん中にはオルランドの柱、そしてその奥に聖ヴラホ教会。北側にはスポンザ宮殿、東側には「緑の男達」が鐘つきをする時計塔

時計塔の足元には、西のカフェ・フェスティバルに対する西のアイコン的カフェ、グラドゥスカ・カヴァナ・アルセナル

こちらの名も「シティ・カフェ・アーセナル(武器庫)」という意味で、この辺りに実際に武器庫があったことを考えると、やはり直球といえるネーミングです。
なお、このカフェはそのまま旧港までつながっており、旧港側は眺めのよいレストランになっています。

このレストランの脇、城壁から旧港につながる小さな門はペシュカリヤ門、こちらも「漁師の門」とわかりやすい名前。
実際に、旧港にはたくさんの漁船が係留されています。
この門をまっすぐ抜けたところの桟橋から、ロクルム島行きフェリーに乗ることができます。

なお、旧港へ抜けず、グラドゥスカ・カヴァナ前を南側へ進むと、港側に総督邸。正面にドゥブロヴニク大聖堂が見えます。
ドゥブロヴニク大聖堂まで進まず、聖ヴラホ教会裏の道、オド・プチャ通り(Ulica od Puća)に入って西側に少し戻ると、朝市で有名なグンドリッチ広場です。

これらの見どころの他、ストラドゥンそのものも、コンサートやケーキフェス、牡蠣フェスなどのイベント、マラソン大会やキッズかけっこ大会、12 月にはクリスマスマーケットと、様々な催しの会場にも使用されています。
それらがない時でも、夕焼け時など本当にキレイ。
「一度は訪れるべきストリート」と言われるのも、納得の美しさです。

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