ドゥブロヴニク旧市街付近の戦争遺産 vol. 2: クパリ(ドゥブロヴニク付近)

「アドリア海の真珠」「この世の天国」と讃えられ、ヨーロッパを中心に、世界から年間 200 万人もの観光客が訪れるドゥブロヴニク。人口 4 万人強の都市としては破格の大成功を収めるこの美しい都市は、わずか 25 年前、世界遺産である旧市街も含め、クロアチア独立戦争の激戦地の一つでした。

今回は、戦争の爪痕 vol. 1: ホテル・ベルヴェデレ に続き、当時の記憶を今に残す廃墟、ドゥブロヴニク近郊のリゾート地クパリをご紹介します。


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クパリ・リゾート

クパリは、ドゥブロヴニク空港とドゥブロヴニク旧市街のちょうど真ん中あたりにある小さな村。
クロアチア独立戦争で徹底的に破壊しつくされた当時の状態のまま、リゾート地がまるごと放棄された状態になっている場所です。

クパリにはとても美しいビーチがあり、小高い山に囲まれた穏やかな入り江は景色も非常に気持ちのよい場所です。
そのため、早くからリゾート開発が進み、ティトがユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国を率いていた時代、ユーゴスラヴィア軍のエリートのリゾート地となっていました。

近代におけるドゥブロヴニク地区の観光の先駆け的な存在であり、9 つもの大型ホテルとキャンプサイト、いくつものヴィラを抱え、ティトの別荘もあった特別な場所だったのです。

ただ、もちろん、リゾート地ですので、クロアチア独立戦争が勃発し、セルビア・モンテネグロ連合軍がこの地域に侵攻を開始した時、クパリの守備にあたっていたのは、軽装備、少人数のクロアチア警察のみでした。
続々と入港する重装備のユーゴスラヴィア軍艦を前に、警察組織のみで立ち向かう術はなく、20 日後、クパリは陥落します。

クパリが陥落する頃には、直前まで栄華を極めていたホテル群は、フロアごとに照準を合わせて虱潰しに破壊するという徹底的な砲撃を受け、見るも無残な姿に変わり果ててしまいました。

1992 年になって、クパリがクロアチアの手に戻された時、砲撃されたホテル内にあった金目のものは全て奪い去られていたそうです。
あとに残ったのは巨大な、空っぽの、荒れ果てた廃墟のみでした。

復興の初期、1998 から、比較的状態のよいクパリのホテル 3 つがクロアチア軍駐留地として利用されました。
軍隊は 2001 年に撤収し、売却および民営化の努力が始まりましたが、手続きは遅々として進まず、30 年近く経った今も、クパリは当時の姿のまま、ときに忘れられたような姿で立ち尽くしています。

なお、まだ着工には時間がかかりそうですが、今後の計画としては、中心にあるグランド・ホテルのみを保存し、それ以外の場所は新たなリゾート地として再建される予定となっているそうです。

2016 年 11 月に訪れた時、まだ工事は一部を除いて始まっておらず、弾痕だらけの廃墟は静かに、時とともに少しずつ朽ちていっていました。
以前の威容、美しさを伺わせる巨大なホテル群の廃墟は、まるでここに刻まれた悲しい記憶そのもののように見えました。

クパリも、ホテル・ベルヴェデレも、できることなら起こってほしくなかった悲惨な歴史の一コマ。
今は戦争前の美しく、明るい姿を取り戻したように見える、静かで平和なドゥブロヴニクですが、独立戦争開戦は、今からたったの 25 年前のこと。

コナヴレが最終的にクロアチアに奪還されたのは 1995 年、クパリから軍隊が撤収したのは 2001 年と、ごく最近のため、この地域はいまだその傷から回復したとはいえない状態にあります。
ここに暮らす人々と仲良くなればなるほど、このような歴史を理解することは、遠いクロアチアの友人を理解するために欠かせないことだと思わざるを得ない場面に多く遭遇するようになります。

痛々しく、正視するのが辛い歴史ではありますが、友人たちへの敬意もこめ、しっかりと向き合い、少しでもよく理解していくため、今後も色々と取材を続けていきたいと思います。


アクセス

クパリ・リゾートは郊外に出るバス 10 番。ケーブルカー乗り場前のバス停から乗って Kupari の街に入り、「Kupari」の看板を過ぎたらブザーを押して次のバス停でおります。

さらに次のバス停のある Srebreno にはショッピングセンターがあるので、わかりやすいです。
このショッピングセンター近くのバス停からでも、徒歩で行くことができます。