ドゥブロヴニク旧市街の観光スポット: ​ルジャ広場の時計台

ドゥブロヴニク旧市街のメインストリート、ストラドゥン(プラツァ通り)の端にあるルジャ広場。
ここに、一際背の高い時計塔があります。

旧市街の反対側からもよく見える時計塔とその上の鐘は、ドゥブロヴニクの代表的なイメージとして数々の映像、写真などの題材として使用され、地元の皆さん、観光客いずれにも広く愛されています。

この記事では、この時計台にまつわるエピソードをご紹介します。


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ルジャ広場の時計塔

ルジャ(Luža)広場は、ドゥブロヴニク旧市街のメインストリート、ストラドゥン(プラツァ通り)の東の端にある小さな広場。

広場の真ん中にはオルランドの柱と呼ばれる、剣を掲げた騎士の像。
その背中にはドゥブロヴニクの守護聖人、聖ヴラホを祀った聖ヴラホ教会
聖ヴラホ教会の反対側にはスポンザ宮殿、その脇の小道の奥にはユダヤ教のシナゴーグ、横手にはマリン・ドゥルジッチ劇場、街のカフェ(シティ・カフェ)であるグラドスカ・カヴァナ、その並びには旧総督邸、さらにそのお向かいにはドゥブロヴニク大聖堂

要するに、ルジャ広場は、周囲をドゥブロヴニク旧市街の観光スポットに取り囲まれたような場所ということができます。
また、オルランドの柱には旗を掲げることができ、聖ヴラホ教会の入り口の階段はちょっとしたステージのようにもなっているので、民族舞踊団リンヂョ(※英語)の公演や地元のブラスバンドの演奏、それにストラドゥンをステージとするロックコンサートなど、様々な催し物の舞台として使用されることも多いです。

さて、このルジャ広場には、高さ 31 m の時計塔があり、毎時、美しい鐘の音で時刻を知らせてくれます。

この時計塔は、もともとは 1444 年に建てられました。
頑丈な建物で、ドゥブロヴニク周辺に甚大な被害を及ぼし、ドゥブロヴニク共和国崩壊のきっかけにもなった 1667 年の大地震も含め、数度の大地震を経験しても崩壊することはありませんでした。

ただ、それでも徐々に傾いてきたたため、18 世紀になって 5 年がかりの大規模な修復が行われ、今にいたっています。

なお、この時の修復費用は、南米チリに移住し、成功した元ドゥブロヴニク住人が負担したそうです。
驚くべきことに、こちらのご家族、その後 100 年以上、何世代にも渡って、この時計塔のメンテナンスを担当してきているそうです!

鐘をつく兄弟像

さて、この時計塔。
鐘の部分をよく見てみると、鐘の横に二人の男性像があり、彼らが鐘をついているようになっていることがわかります(地面からより、城壁または周りの建物からの方がよく見えます)。

この二人は「バロ」と「マロ」という名の兄弟だそうで、地元では、その錆びた青銅の色から、「ゼレンツィ(Zelenci)」、つまり「緑の男」と呼ばれています。

作者はイヴァン・ラブリャニンという地元の鋳物職人で、砲弾や鐘作りの名手。
ドゥブロヴニク史に残る伝説的な巨大大砲、ミンチェタ・タワーにあった「美女」およびロヴリイェナツ要塞にあった「トカゲ」の作者としてもよく知られています。

現在のゼレンツィはオリジナルではなく、時計塔の修復の際に作り直された新しいものですが、 オリジナルのゼレンツィ、そして彼らのつく鐘は総督邸に展示されていて、今でも当時の姿をそのまま見ることができます。

写真で見たい方は、クロアチアの文化財を保護しているクロアチアン・コンサベーション。インスティチュートのこちらのページ(※英語)に載っているので、見てみてくださいね!

ついでのお話: 世界で活躍するクロアチア系の皆さん

クロアチアは、国内に住んでいるのは約 420 万人くらいですが、実は「ディアスポラ」と呼ばれる、クロアチアから世界各地に移民として渡っていった人々で、クロアチア国籍を保持している方も非常に多くいらっしゃいます。
※多重国籍は、世界の多くの国で、特殊な場合を除き容認されているので、移民先の国とクロアチア国籍の両方を持っていても問題ないのです。

クロアチアは、1800 年代から 1900 年代にかけ、政情が極めて不安定で、数々の戦争、ナチズムや時の権力者による抑圧、民族浄化などで非常に苦しい時代を経験しています。
そのため、数多くのクロアチア人が難民となり、世界各国に避難することを余儀なくされました。

クロアチアのディアスポラが最も多い移民先はお隣のボスニア・ヘルツェゴヴィナ。
ただ、こちらについては、両国とも数十年前まではユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一部だったため、今 20 〜 30 代くらいの方までは、生まれたあとに国境ができた形になります。
そのため、様々な便宜上の理由で、両方の国籍を付与されている人も多いです。

バルカン半島を除く移民先としては、すぐ近くのドイツ、オーストリアなどを始めとするヨーロッパはもちろん、南北アメリカやオーストラリア、ニュージーランドなど、世界の様々な場所にクロアチア移民のコミュニティが存在します。

南米においては、特にチリへの移民が多く、チリ側の受け入れ体制も整っていたため、非常にスムーズに地元社会に溶け込みました。
そのため、チリにおけるクロアチア系コミュニティはボスニア・ヘルツェゴビナに続く、世界で 2 番目の規模にまで拡大し、現在では、なんとチリの全人口の約 2.5 % にあたる 38 万人がクロアチア系となっています。

一節によると、ダルマチア地方から移住していったワイン生産者は、南北アメリカ大陸に移住した後、移住先でワイン造りを始め、それにより南北アメリカのワイン生産の土台が一気に作られたのだとか。

実際、カリフォルニアのナパ・ヴァレーを一躍世界のワインのホットスポットの地位に押しあげたのは、クロアチア移民のミリェンコ・”マイク”・グルギッチ(Miljenko “Mike” Grgich)さん。
ナパ・ヴァレーを代表するワイナリーの一つ、グルギッチ・ヒルズ・エステートの創業者であり、もともとはペリェシャツ半島でワイン生産をされていた方ですね。
※ガーギッチ、グルジッチといった読み方をされることも多いですが、クロアチア風の発音だとグルギッチになります。

今もペリェシャツ半島にはグルギッチのオリジナルワイナリーがあり、訪問することもできます。
ペリェシャツ半島の方は、英語で読みやすいようアレンジする前のつづり、「Grgić」の名のついた「Grgić Vina」になっていますが、間違いなくナパと同じグルギッチさんのワイナリーです。

また、その他クロアチア系で日本でも知られているかな?という有名人には、歌手のロード(Lorde)、俳優のエリック・バナ(Eric Bana、本名は Eric Banadinović。初代ハルク)やゴラン・ヴィシュニッチ(Goran Višnjić、「ER 緊急救命室」のコバッチュ医師)などがいます。