​ ドゥブロヴニク旧市街の観光スポット: ルペ民俗学博物館 / 旧穀物庫

真ん中の凹んだ谷のような形のドゥブロヴニク旧市街。小高くなった海側の斜面に、ひときわ大きな建物があります。
これがドゥブロヴニクの民俗学博物館。
もともとは穀物庫として利用されていたため、当時の貯蔵庫跡なども見ることができます。

今回は、伝統的な衣装や工芸品、日常生活で使われていた道具などに加え、幾多の籠城戦を勝ち抜いた中世の都市の叡智も垣間見ることのできる、ドゥブロヴニクの民俗学博物館をご紹介します。


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民俗学博物館の展示物

民俗学博物館の主な展示物は、ドゥブロヴニク周辺およびクロアチアの文化や伝統にまつわる数々の品物や記録等。
伝統的な衣装やアクセサリー、生活用品などが中心で、ドゥブロヴニクの守護聖人である聖ヴラホの祭典の様子など、普段見えないドゥブロヴニクの姿を垣間見ることもできます。

まあ簡単にいうと、「ドゥブロヴニクの郷土博物館」ですね。

今ではお祭りなどでしか見られない伝統衣装であったり、古い民家の片隅にしまい込まれている昔ながらの道具であったり、そういうものが飾られています。
目を引く展示としては、コナヴレの絹刺繍や伝統的な金のアクセサリー類があり、手のこんだ刺繍の施された衣装はとても美しいです。

ドゥブロヴニク郊外のコナヴレ地区は、絹刺繍が盛んに行われていた地域で、昔は各家庭で蚕を飼っていたのだそうです。
各家庭伝統の意匠があり、衣装をみると、その人がどの家の人かわかったのだとか。

しかし、その伝統は一度ユーゴスラヴィア紛争/クロアチア独立戦争で廃れてしまいます。

それというのも、ドゥブロヴニクは、クロアチア独立戦争時にひどい被害を被ったことで知られていますが、コナヴレは、ユーゴスラヴィア連邦軍がそのドゥブロヴニクに向かう進路の途中にある地域。
農村部なので注目されないのですが、ここは実際制圧されてしまって、多くの住民がモンテネグロにあった強制収容所に送られ、家や家財道具は破壊・略奪されつくすという壮絶な経験をしているのです。

この被害の一つとして、当時の絹織物は難民化した人が持ち出せたもののみ、蚕は全滅する形となり、再びこの伝統が復興するまでには多くの苦難と、ドラマがありました。

ここで展示されている衣装などは、そういった苦難を乗り越えて今に残る貴重なもの。

こちら、郷土博物館的な場所だけあって、展示は割と地味で貴重さが伝わりにくいです。
筆者も、歴史を知るまでは、「へー、こういうのが伝統的な服なんだー」くらいの気軽さで見ていました。
歴史を見直して、この地域に住む友人も増えた今では、ここの展示物の重みは全然違うものに見えてきました。

筆者の地元である東京も、大空襲の時にいろんなものが焼けてしまったわけです。
その時代のことを直接知っているわけではないんですけれども、やっぱり、古い着物をだされて、「この着物は東京大空襲の後、焼け跡から奇跡的に発見されたんだよ」なんて言われると、ぐっと来るじゃないですか。
そういう重みと、共感を持って、今はこの展示を眺めるようになりました。


穀物貯蔵庫の跡

さて、こちらの民族博物館、階段の多いドゥブロヴニクでも、城壁に近い、かなり高台の方につくられています。
建物がびっしり建っているのでわかりにくいのですが、ここは険しい斜面の途中にあるため、斜面側の一部は地下に埋まった形になっているわけですね。

そのような形で建てられているこちら、1 階の床を見ると、いくつか、井戸のような深〜い穴が掘られています。
これらは、博物館の名前、「Rupe(ルペ)」の由来となったもの。
ルペとは、現地の言葉で「穴」という意味なんです。

しかし、井戸でもないこれらの穴。
一体なんために掘られているのでしょうか?

その答えは、ドゥブロヴニクの歴史に隠されています。

ドゥブロヴニクは、今はクロアチアを代表する観光地になっていますが、実は、クロアチアの一部としての歴史より、単独で自治権をもつ別の都市国家だった歴史のほうが長い、ちょっと変わった場所。

クロアチアのアドリア海沿岸地域は、古代ギリシャのポリスから始まり、ローマ帝国の一部になり、その後はフン族の侵攻を受けたり、ヴェネツィア共和国やオットーマン帝国(オスマン・トルコ)、ハプスブルク帝国に分割統治されたりと、大国の思惑に翻弄され続けた地域です。
そんな場所で、450 年という、この地域としては驚異的な長期間に渡り自治を守った都市国家、ドゥブロヴニク共和国は、その歴史の中で、数多くの籠城戦を経験してきています。

ちなみに、ドゥブロヴニク共和国は軍隊を放棄し、外交努力によって生き残ることを選択した国なので、シティ・ガード、つまり旧市街の治安を守る衛兵を除き、軍隊らしい軍隊は持っていませんでした。
攻め込まれないように根回ししまくるところこそが共和国の真骨頂であり、それが機能しな場合には攻め込まれて籠城、というのがパターンになるのです。

そのため、ドゥブロヴニクは、平時から、数ヶ月から数年という長期間の籠城を想定し、これに耐え抜く体制作りに余念がありませんでした。

これが具体的に何を意味するかというと、数千 〜 1 万強の市民を、数ヶ月〜数年支えられる量の食糧を備蓄し、水を城壁内で調達できるシステムを確保しておく、ということになります。
これ、当時としては桁外れの国家プロジェクトですよね。

では、ドゥブロヴニク共和国は、どうやってこれを実現したか。

まず、ドゥブロヴニク共和国、穀物にかかる関税を撤廃することで、穀物の輸入量増加を促進します。
さらに、市民が穀物を購入しやすいよう補助金を出して購入意欲を促進したので、必然的に、市内に留まる穀物の全体量が増えていくようになりました。

ただ、穀物は傷んでしまえば食べられなくなりますよね。
大量の穀物を良好な状態で保持するためには、当然、優れた貯蔵システムが必要です。
そして、そのために作られたのが、この穀物庫なのです。

重い穀物を運び入れるにはちょっと不便なこの高台にある立地も、じつは計算に基づくもの。

高台のここは、掘り下げても地下水脈にあたる恐れがなく、洪水がおきたとしても巻き込まれることがありません。
また、貯蔵庫を地下にすれば、温度は常時 17.5 度。
穀物の貯蔵に適した環境が 1 年を通して保たれることになるのです。

と、これだけ言うと簡単そうに聞こえますが、ドゥブロヴニクは基本的に石灰岩の岩盤の上にある街。
この岩盤を、重機のない中世に、9 m もの深さに、15 箇所もくり抜き、防水性の高い素材で壁面を固めて保護するわけです。

実際、ヨーロッパ全体を見ても、岩盤を掘り下げて、これだけの規模の穀物貯蔵庫を地下に作った都市は、ドゥブロヴニク以外に例がありません。
見た目はものすごく地味な古井戸みたいですが、これらは、実はむちゃくちゃ希少価値の高い、中世の叡智と最先端技術の結晶なのです!!

なお、これらの穴は、ドゥブロヴニクの大地震で旧市街の大部分が崩壊した際に、一度埋まってしまったのですが、後に一部掘り返され、展示されるに至りました。
知らずに見ると「部屋の中にいくつも井戸があるなんて変わってるな」と思ってさらっと流してしまいがちなのですが、井戸じゃない!
中世のすごい遺跡なのですよ😊


アクセス

ルペに行くには、まず、ストラドゥン(プラツァ通り)から枝分かれする小路のうち、最も広い Široka(シロカ)通りを探しましょう。
ここを海側に進み、道(階段)が細くなっても、めげずにどんどん登っていきます。

かなり上の方まで上ったところで、「どっちに行けばいいのかな?」という気持ちを掻き立てる、全方向の道が急に狭くなる十字路に出ます。
この場面では、落ち着いて、ストラドゥンを背にして右手を見ましょう。

すると、建物の一部が路地をまたぎ、トンネルのようになったところがあるはず。
なければ、もっと登りましょう。

「トンネルあった!」という場合は、このトンネル的なところの手前が民族博物館の入り口です。
斜め前あたりに小さな水飲み場があるので、これも目印になります。

ちなみにこのトンネル状のところ、Game of Thrones シーズン 4 エピソード 1 で、プリンス・オバリン(Prince Oberyn)とティリオン・ラニスター(Tyrion Lannister)が遊郭から出てきつつ会話をする場面のロケ地です。

なお、ルペは城壁のスルジ山側からでもはっきり見えるくらい大きい建物なのですが、どういうわけか、近くまで行くと全く目立ちません。
大きな建物のような感じが全くしないのがトリッキーです。
普通の個人宅っぽくて、とてもわかりにくい。

「え、ここでほんとに大丈夫?」と思ったら、入り口付近の壁に、一応、博物館であることを示す地味な金属版がはりだされているので、こちらを目印にしましょう。
入り口は階段で路面より少し高くなっていて、ドアも緑の木製で個人宅風。
博物館っぽさゼロで入りづらいかもしれませんが、入って大丈夫です。

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