ドゥブロヴニク旧市街付近の戦争遺産 vol. 1: ホテル・ベルヴェデレ

「アドリア海の真珠」「この世の天国」と讃えられ、ヨーロッパを中心に、世界から年間 200 万人もの観光客が訪れるドゥブロヴニク。

人口 4 万人強の都市としては破格の大成功を収めるこの美しい都市は、わずか 25 年前、世界遺産である旧市街も含め、クロアチア独立戦争の激戦地の一つでした。

現在は、一見そんな歴史が嘘のような復興を果たしているドゥブロヴニクですが、今働き盛りの世代の多くは戦争経験者。少し足を伸ばせば、砲弾の跡も生々しい廃墟も珍しくなく、戦争の傷跡はドゥブロヴニク、そしてクロアチアにいまだくっきりと刻み込まれています。

今回は、そんな場所から、近々再建が予定されている廃墟、ドゥブロヴニク市の外れ、ヴィクトリヤ(Viktorija)にある ホテル・ベルヴェデレ(Hotel Belvedere)をご紹介します。


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背景: クロアチア独立戦争とは

ナチスの影と民族間憎悪 〜 ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の誕生

第二次世界大戦前後、クロアチアのあるバルカン半島では、ドイツおよびイタリアの傀儡政権が乱立。ファシズムの影響の下で、激しい民族浄化の嵐が吹き荒れます。

バルカン半島では、ユダヤ人やロマだけでなく、互いを民族浄化のターゲットとして殺戮しあう展開となり、将来に根深い禍根を残すことになりました。

さて、第二次世界大戦終戦と共にファシズム体制は崩壊。バルカン半島では、ヨシップ・ブロズ・ティト(チトー)率いる「ユーゴスラヴィア人民解放軍およびパルティザン(パルチザン)部隊」が傀儡政権の打倒に成功。南スラヴ(ユーゴスラヴ)全民族の団結を目指す新しい国家、ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国が建国されます。民族解放の英雄であるティトは、首相、後に大統領に選出され、そのカリスマ的指導力を発揮してユーゴスラヴィアを率いることとなりました。

民族間の対立によって荒廃したユーゴスラヴィアをまとめあげるため、ティトは「兄弟愛と統一」をスローガンに、南スラヴ各民族の平等と融和を推進。また、融和を脅かす民族主義思想は徹底的に取り締まります。

同時に、社会主義体制の枠内で一定の自由主義を導入し、冷戦中は東西いずれにも属さず中立を保つなど独自路線を貫き、ユーゴスラヴィアの経済・社会的な安定の実現に成功しました。


ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の崩壊と紛争の勃発

残念なことに、ユーゴスラヴィア社会主義連邦の平和と安定は、ティトという稀代の指導者の力があって、初めて維持しえたものでした。ティトの死後、唯一絶対の求心力を失ったユーゴスラヴィアでは、民族間の対立感情が急激に悪化。これを追い風に、民族主義を是とする政治家が権力を手中におさめていきます。

そして、最終的に内戦の引き金を引くことになったのが、スロボダン・ミロシェヴィッチ率いるセルビア社会主義共和国による、コソヴォ社会主義自治州の自治権の剥奪と併合でした。

一連のセルビアの動きを受け、ユーゴスラヴィア国内情勢は大きく動揺します。紆余曲折の後、まずスロヴェニア、クロアチア両国が、1991 年 6 月 25 日にユーゴスラヴィアからの分離と独立を宣言。

これを認めないユーゴスラヴィア軍(実質的にはセルビア・モンテネグロ連合軍)と間に武力衝突が勃発し、ここに、その後長期に渡ってバルカン半島を苦しめることとなる、ユーゴスラヴィア紛争の火蓋が切って落とされたのです。

ユーゴスラヴィア紛争は、最終的には NATO によるセルビアの空爆など、国際社会をも巻き込む非常に激しい戦いとなりました。また、紛争は単純な軍隊同士の戦闘行為に終わらず、民族間憎悪に駆り立てられ、市民の無差別虐殺、拷問、強姦など、民族浄化という人道に対する犯罪行為が数多く行われるという、最悪の展開をみせました。

数え切れないほどの犠牲者、そして難民がここで生み出され、25 年が経った今もその影響はくっきりとこの地域に刻み込まれたままとなっています。

クロアチア独立戦争

バルカン諸国の中で、歴史上最も長期に渡ってセルビアとの対立が続いてきたクロアチアでは、ファシズム政権下で互いを虐殺しあった経緯の影響もあり、セルビア・モンテネグロ連合軍との戦いが長期化。1991 〜 1995 の 4 年に渡り、各地で見境ない破壊と殺戮が繰り広げられる展開となりました。

この「クロアチア紛争」、現地の呼び名では「クロアチア独立戦争」には、北部のヴコヴァルを始め、特に激しい戦闘の行われた激戦地が幾つかありますが、ドゥブロヴニクとその周辺地域もそのうちの一つ。

ドゥブロヴニク周辺への侵攻が開始されたのは、独立戦争初期の 1991 年 9 月頃のこと。1991 年 11 月から 1992 年 5 月までの間は、ドゥブロヴニクはクロアチアの他の地域から切り離され、包囲戦を耐え抜きました。世界遺産であり、「攻撃対象としない」と明言されていたはずのドゥブロヴニク旧市街も、例外とはならなかったのです。

守備体制も整わない中、ドゥブロヴニクは激しい空襲を受け、過半数の建物が被弾・炎上するなどして損壊します。激しい砲撃を浴び、炎と黒煙を挙げて破壊されていくドゥブロヴニク旧市街の姿は、リアルタイムで世界のメディアで大きく報道され、世界中の人々に大きなショックを与えました。

また、被害は旧市街に限られたわけではありません。ドゥブロヴニクは 1992 年より国連平和維持軍の観察下に置かれましたが、周辺地域は、1995 年までという長期にわたり、セルビア・モンテネグロ軍に占拠され、住民の帰還もできず、農地や住居など徹底的な略奪・破壊行為の対象となりました。

今回ご紹介する、旧ユーゴスラヴィア軍上層部のために建築されたリゾート地であり、ティトのお気に入りの休暇先でもあったクパリ、そして紛争前は 5 つ星ホテルとして人気を誇ったドゥブロヴニク市郊外のホテル・ベルヴェデレも、この時、原型を留めないほど破壊しつくされた場所の一つです。

戦争前は贅を凝らした高級リゾートでしたが、解放された時は、砲弾で蜂の巣となり、家具や調度品などの類はきれいに持ち去られた、いつ倒壊してもおかしくない廃墟のみが残されていたのでした。
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ホテル・ベルヴェデレ

ホテル・ベルヴェデレは、ドゥブロヴニク市のはずれ、ヴィクトリヤ(Viktorija)に建つ、見捨てられ廃墟化したホテルです。

ここは、もともとは、18 階建て、223 室を抱える 5 つ星の高級リゾートホテル。目の前にはのどかなロクルム島の浮かぶアドリア海。すぐ足元には、美しく穏やかな聖ヤコブ・ビーチの白と紺碧の海とが美しいコントラストを見せています。

クロアチア独立戦争勃発時点では、ホテル・ベルヴェデレはオープンからまだたったの 6 年しか経っておらず、富裕層のラグジュアリーな逗留先として高い人気を博していました。

ユーゴスラヴィア・モンテネグロ連合軍によるドゥブロヴニク侵攻が開始され、コナヴレの集落がユーゴスラヴィア軍に制圧されると、ホテル・ベルヴェデレはまずクロアチア警察(※当時、軍隊がなかったため、警察が軍隊的な役割を果たさざるを得なかった)の駐留地となり、続いて難民化した付近の住民の避難所として利用されました。

11 月に入り、ドゥブロヴニクの空襲・包囲戦が始まると、ホテル・ベルヴェデレも再び攻撃の対象となり、周辺の山地から、砲弾を雨あられと浴びせかけられました。美しかったホテルはひどく破壊され、家具や調度品から絨毯などに至るまで、金目のものは全て剥ぎ取られ、見るも無残な廃墟となりました。

さて、戦後のホテル・ベルヴェデレ。権利の問題なども絡み、再建されないまま 25 年に渡って放置されてきました。しかし、2016 年、ロシアの富豪ヴィクトル・ヴェルクスベルグによって買い取られ、近年中に、超豪華リゾートとして生まれ変わる予定です。

2016 年 10 月、これが見納めになるかも…と思いつつ撮影してきた写真がこちら。内外に割れたガラスやブロック、タイルなどが散在し、壁はグラフィティだらけになっています。

また、こちらの廃墟、米人気ドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ(Game of Thrones)」のロケ地としても使われています。外にある小さな円形劇場では、オバリン・マーテル(Oberyn Martell)、またの名を「ヴァイパー」と、グレゴール・クリゲイン(Gregor Clegane)、「ザ・マウンテン」のあの決闘裁判のシーン、「The Mountain and the Viper」が撮影されました。

一部を除いて立ち入りは特に禁止されてはいないので、工事が始まる前であれば、まだ立ち入りは可能だと思います。海側からアプローチすることもできますし、道路側からであれば、聖ヤコブ・ビーチの先の門から、またはボートの整備などに利用されている「立入禁止」サイン付きの門の脇の階段からもアプローチできます。海はきれいなので、地元の人はビーチにくつろぎに来たりもします。

治安などについても特段問題はなく至って平和ですが、いつ崩れてもおかしくありませんし、人気もあまりないので、もし何かあると、いざという時おそらくたいへん困ります。一人で行くのはあまり推奨はしませんし、立ち入りは自己責任になりますが、ご興味があればぜひ足を運んでみてください。すごく考えさせられる廃墟です。
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アクセス

ホテル・ベルヴェデレは、頑張ればドゥブロヴニクから歩いていけます(1 時間ちょっとくらい?)。バスで行くなら市内路線バス 8 番、Viktorija で降りるとすぐです。
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