ドゥブロヴニクから車で 1 時間ほど西に行ったところに、代表的なクロアチアワイン、プラヴァッツ・マリの産地として名高いペリェシャツ半島があります。
ストンは、このペリェシャツ半島の入り口にある小さな街。
クロアチアのみならず、ヨーロッパの食通をうならせる牡蠣、ローマ時代から同じ製法で造られる天日塩などで知られるこの街のもう一つの名物が、半島の入り口を横断する長大な城壁です。
切り立った山肌に、変形五角形、崩れた星のようにも見えるストンの城壁は一見の価値あり。
今回は、このストンの城壁についてご紹介します。
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ストンの城壁とは
ストンの城壁は、ヨーロッパでは 2 番目に長く、世界でも有数の長さを誇る城壁。
建造当時は 7 Km 強あったとのことですが、現存するのは 5.5 Km 程度だそうです。
なお、ヨーロッパ最長の壁はイングランド北部にあるハドリアヌスの長城で、2 世紀に建造されたものですが、こちらは城壁そのものは残っておらず、あるのは城壁の一部だった石組みのみ。
きちんと城壁の形を保持したまま残っているものとしては、ストンの城壁がヨーロッパ最長のものとなります。
さて、この城壁は、大きく 2 つのパーツに分けることができます。
1 つ目は、山肌まで含めて、ストンの街をぐるっと大きく囲い込む、いびつな五角形。
そしてもう 1 つが、ペリエシャツ半島(Pelješac Peninsula)を横断し、半島の南にあるストンと、北にあるマリストンの二つの町をつなぐ、長く伸びた線状の部分。
城壁全体を巨大な門に見立てるならば、ストンとマリストンはまるでその両端を固める門番のような位置にあることになります。
ペリエシャツ半島は真ん中が背骨のように高く隆起しているため、ストンの街を囲む五角形、そしてマリストンへとつづく長い城壁は緑豊かな急斜面に白く浮き出すように見え、ここにしかない独特な景観を生み出しています。
ペリエシャツ半島とストンの城壁の歴史
ペリエシャツ半島に人が住むようになったのは、他のダルマチア沿岸部と同様、紀元前の古代ギリシャ時代。
その後、紀元前 3 世紀頃からはローマ帝国(イリュリア戦争後はビザンツ帝国)の支配下にに置かれていましたが、7 世紀ごろからからは、スラヴ民族の大移動に伴い、実質的にセルビア系スラヴ人の土地となりました。
ペリエシャツ半島がドゥブロヴニク共和国の一部となったのは 1333 年。
ドゥブロヴニク共和国がセルビア王国のウロシュ 3 世からを買い取る形でペリエシャツ半島を獲得しました。
さて、ペリエシャツ半島を戦略上重要な場所と位置付けていたドゥブロヴニク共和国は、ペリエシャツ半島を獲得するとすぐに城壁の建築に着手。
18 ヶ月をかけてペリエシャツ半島を横断する長大な壁を作り、ストンとマリストンを防衛拠点として整備しました。
戦略的な計画に基づいて都市が人工的に作られた例としては、ストンはヨーロッパで 2 例目、非常に古いケースだそうです。
なお、ストンとマリストンを整備する際、原型となったのはドゥブロヴニク旧市街の城壁。
そのため、ドゥブロヴニクの要塞とストンの要塞はよく似たつくりになっており、名前も共通のものが使われています。
城壁はその後、塩田の保護のためにさらに拡張され、最終的に城壁とすべての要塞が完成したのは 15 世紀のことです。
さて、時代は進んで 19 世紀。
ドゥブロヴニク共和国はナポレオン率いるフランス帝国によって滅亡させられてしまいます。
これに伴い、ストンの城壁の戦略的重要性も失われることになりました。
城壁は直ちに破壊されることはありませんでしたが、売りに出されてしまいます。
買い取られてからは、城壁の一部は建築資材扱いとなり、城壁を構成する岩が取り外され、持ち去られ、徐々に破壊されていくこととなりました。
2 度の世界大戦後、クロアチアがユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の一部となっていた 1952 年、ドゥブロヴニク共和国の歴史的遺産の復興と保全を使命とする「ドゥブロヴニク・アンティークの友( the Society of Friends of Dubrovnik Antiques / Društva prijatelja dubrovačke)」という市民団体が結成されます。
そして、この会員であり、初代代表となったルシュカ・ベリティッチ(Lukša Beritić)の熱意により、ストンの城壁は「ドゥブロヴニク・アンティークの友」によって修復されることとなりました。
この団体は、現在では、城壁や要塞などを含むドゥブロヴニク共和国の歴史的遺産の修復、管理、保全等を幅広く実施しています。
ストンの城壁の修復は今も継続して行われていますが、この資金の多くがドゥブロヴニクの城壁入場料などで賄われているそうです。
ストンの城壁の特徴
ストンの城壁には、3 つの要塞、7 つの半円形の稜堡、41 の塔が備わっています。
この複雑なフォーメーション、および城壁によって連結されたストン、マリストンの街の規則的な配置から、この城壁が大がかりな防衛システムとして機能するよう、入念に練り上げられた計画の産物であることがよくわかります。
ドゥブロヴニクからストンへのアクセス
ドゥブロヴニクからストンに行くには、路線バスを利用すると便利です。
本数は少なく、日曜と祝日には運行していませんが、朝ドゥブロヴニクを出て、一日ストンまたはその周辺で過ごし、夜帰ってくることができるスケジュールなので、日帰りで遊びに行くにはちょうどよいとも言えるでしょう。
ストン行きのバスは 15 番、グルージュのバスターミナル発着です。
時刻表は運行会社、リベルタス・ドゥブロヴニクのこちらのページから「West」のボタンを押して確認することができます。
ストンのバス停から城壁へのアクセス
ストンの城壁には、ストンに 2 箇所、マリストンに 1 箇所の入り口があります。
ストンからマリストンまで、城壁をずっと歩いてペリェシャツ半島を横断できるようになっているので、どちらから入っても OK。
なお、城壁はかなりの急斜面が続く山中を通る形で建てられているため、眺めは最高ですが、けっこういい運動になります。
これを往復するのはきつい…ので、行きは城壁を通り、帰りは山の裾を回る、あまりアップダウンのない歩道を通ることもできるようになっています。
ストンのバス停から一番近い入口は、ストンの町を囲む変形五角形部分の、マリストンに近い一端にあります。
バス停 兼 駐車場の目の前の道を渡り、ストンの町に入って、そのまま右手(山側)に進んでいったところが一番近い入口。
城壁を端から端まで全部歩きたい場合は、バス停から遠い方、町の反対側の入り口から入りましょう。
この場合は、バス停からストンに入り、そのままストンの街を横断して反対側まで行きます。
ストンはとても小さい町なので、ものの数分で横断できます。
反対側につくと、こちらにも駐車場がでてきます。
あたりを見回して、「Stonske Zidine(ストンスケ・ズィディネ: ストンの城壁)」「Ulaz(ウラズ: 入り口)」と言った文字の書かれたサインを探してみてください。
入り口近くにお手洗いがあるので、「WC」のサインを探した方が、もしかしたらわかりやすいかもしれません。
なお、どちらの入り口から入るにしても、場所によっては傾斜がかなり急で、足元ガタガタのところが多いです。
そのため、運動靴、トレッキングシューズなどの着用をおすすめします。
また、ストンの城壁には、途中に売店やトイレなどはありません。
トイレはストンでコーヒーでも飲んだついでに行っておき、お水もついでに買って持っていきましょう。
ルートにもよりますがマリストンまで行くのに、30 〜 40 分、人によっては 1 時間くらいかかるのではないかと思います。
城壁の幅はかなり狭い部分が多く、手すりが大雑把なので、高所恐怖症の方はもしかしたらだいぶ怖いかも。
それなのに、ストンの城壁ではマラソン大会があるんですよね〜。
歩いてもきついのに、皆さんすごいです…。