スポンザ宮殿は、ストラドゥン(プラツァ通り)の終わり、オルランドの柱のあるルジャ広場に面する、美しいゴシック・ルネサンス様式の建物。1667 年の地震により一度壊滅したドゥブロヴニク旧市街において、例外的に地震前の姿を今に伝える、非常に貴重な歴史的建造物です。
この記事では、そんなスポンザ宮殿についてご紹介します。
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スポンザ宮殿とは
ドゥブロヴニクは、もともと独立した都市国家として発展してきた場所。
ドゥブロヴニク共和国としての歴史の方が、クロアチアの一部となってからの歴史よりもずっと長い、ちょっと特殊な歴史を持つ街です。
さて、ドゥブロヴニクがドゥブロヴニク共和国だった時代、スポンザ宮殿にはいくつか政府機関のオフィスが置かれていました。
主な機関としては、造幣局、銀行、武器庫、宝物庫、税関など。
そして、建物に入ってすぐのところは大きく開いたアトリウムになっていて、ここが商取引のために使用されていたそうです。
スポンザ宮殿=中世のビジネスセンター
ドゥブロヴニクは、地理的に、キリスト教圏(ローマ帝国、ハプスブルク帝国、ヴェネツィア共和国など)とイスラム教圏(オットーマン/オスマン・トルコ帝国)のちょうど境目辺りに位置します。
ドゥブロヴニクは、周辺の少国家が続々とどちらかの大国の軍門に下る中、うまく立ち回って自治権や交易権を維持したのですが、この微妙な立ち位置の確保に役立ったのが貿易によって築いた莫大な富。
大航海時代の波に乗り、周辺の大国が続々と植民地を拡大し、奴隷貿易に手を染めて肥大していく中、ドゥブロヴニク共和国は早々に軍隊を放棄し、奴隷制を廃止して、公正な商取引によって独自の価値を生み出すことに注力しました。
ものすごい先見の明!
この当時のドゥブロヴニク共和国の姿勢、今でも、スポンザ宮殿に刻まれた言葉から読み取る事ができます。
スポンザ宮殿のアトリウムには、美しいアーチがあるのですが、ここに、次のような文字が刻まれています。
FALLERE NOSTRA VETANT; ET FALLI PONDERA: MEQUE PONDERO CVM MERCES: PONDERAT IPSE DEVS
〜 我々の秤にごまかしは存在しない。私が計測する時、神も共に計測を行うのだ 〜
透明性が高く、キリスト教国家でありながら異教徒も平等に扱って、公平な取引ができる場所。
これを実現することにより、ドゥブロヴニクには多くの商人が集まり、国は大いに栄えていきました。
商取引の規則、倫理を厳正に守り、安心して取引を行える商環境を確保することによってビジネスを活性化するという手法は、現代にも通用する、先鋭的な取り組みと言えるでしょう。
なお、上述の通り、スポンザ宮殿はビジネスセンターであり、同時に税関および保税蔵置場でもありました。
そのため、当時の通称は「税関」だったそうです。
商売も気になるけど、やっぱり税金気になるからね。
「税関」って呼ぶ気持ちもわかるよね。
ちなみに、アトリウムに沿って、当時の保税蔵置場がズラッと並んでおり、それぞれに聖人の名前がつけられています。
入り口にその聖人のイニシャルが刻まれているので、気になったら見てみてください。
スポンザ宮殿とドゥブロヴニク大地震
スポンザ宮殿は、歴史的価値のかたまりのようなドゥブロヴニク旧市街の中でも、ちょっと特別な建物です。
ドゥブロヴニク旧市街は、中世の街並が非常によい状態で保存されていますが、実はその大部分が 1667 年の大地震の後に復興、再建されたもの。
市街の大半が損壊・焼失してしまったドゥブロヴニク。
大地震以前の街並については、地震や火事、戦争などの中、奇跡的に焼失を免れた希少な古文書から推察することしかできません。
しかし!
スポンザ宮殿は、大地震にあっても倒壊せず、当時の姿のまま残った数少ない例外的建物の一つなのです!!
スポンザ宮殿は、大地震に先立つこと約 150 年、建築家パスコイェ・ミリチェヴィッチのデザインに基づいて 1516 〜 1522 年に建設されました。
周辺の建物が崩壊するほどのダメージを受けているにもかかわらず、なぜかほとんど影響を受けず、そのまま使用を続けることができたそうです。
そして当時、よりによってこのスポンザ宮殿がほぼ無傷で残ったことは、ドゥブロヴニクの再建にとって、このうえなくラッキーなことでもありました。
上述の通り、スポンザ宮殿はビジネスセンターであり、税関でもあった場所。
ということは、ここが正常に機能している限り、ドゥブロヴニク共和国の富の源である海洋貿易は継続することができます。
今も昔も、大災害からの復興には莫大な費用がかかるもの。
いくらドゥブロヴニク共和国がお金持ちだったとは言え、収入が断たれてしまったら、復興も立ち行きません。
そういった意味では、スポンザ宮殿が残ってくれたことにより、ドゥブロヴニクの命綱はかろうじてつながったのかもしれない、と言えるのかもしれません。
実際、ドゥブロヴニクの場合は、旧市街の 4 分の 3 が倒壊または焼失したところから、100 年も経たないうちに、現在見るような旧市街が再建されています。
中世の、重機などもない時代のことですから、復興はかなり迅速に行われたと言ってよいでしょう。
ドゥブロヴニクは、結局この地震を期に、徐々に国力が衰えることにはなるのですが、もし、スポンザ宮殿が無傷で残る奇跡がなければ、このような驚異的な復興をとげることはできなかったかもしれません。
スポンザ宮殿のみどころ
装飾
スポンザ宮殿を飾る美しい彫刻、石造の装飾の数々は、コルチュラ島出身の名工、アンドリィッチュ兄弟の手によるもの。
アトリウムの奥の壁の、イエス・キリストを表す文字が刻まれたメダルを掲げる二人の天使は、イタリアのベルトランド・ガリクスの作品です。
ドゥブロヴニク・サマー・フェスティバル開会式
スポンザ宮殿は、毎年 7 月 10 日から 8 月 25 日を会期として行われる芸術の祭典、ドゥブロヴニク・サマー・フェスティバルのオープニング・セレモニーの会場です。
フェスティバルの始まる 7 月 10 日、ドゥブロヴニク総督を始めとする共和国議員に扮した役者達が、フェスティバルに出演するためにドゥブロヴニクを訪れたアーティストを迎え入れます。
やってきたアーティスト達は、まず彼らの集うスポンザ宮殿前で技と知識を披露。
それを受けて評議会が開かれ、話し合いの結果として、総督からアーティストに対し、ドゥブロヴニクに自由に出入りする許可と、それを象徴する鍵が与えられる…というのが、フェスティバル開会の儀式。
昔から変わらず、毎年行われるサマー・フェスティバルの伝統となっています。
現在のスポンザ宮殿
スポンザ宮殿は、16 世紀終盤に、ドゥブロヴニクを代表する詩人、文筆家の活動拠点としても利用されていました。
その流れを受け、スポンザ宮殿の図書館では、多数の貴重な文書を所蔵しており、現在でも公共の資料館として利用されています(図書館は一般公開されていません)。
現在、一般公開されているのは 1 階部分。
スポンザ宮殿に入ると、まず目に入るのが、正面のアトリウム。
上述のアーチや天使像などのある美しい建築を堪能することができます。
また、このスペースはよく地元のアーティストさんの展示会などにも利用されています。
たまたまそういった時に行き合わせたら超ラッキー!
この手前、入り口近くの小部屋では、1990 年代に起こったクロアチア独立戦争に関する展示が行われています。
ここに並ぶのは、黒煙を上げて炎上する旧市街、砲弾により破壊された城壁や旧港、そして何よりも、犠牲となった人々の写真の数々…。
観光客で溢れ、明るく平和な今のドゥブロヴニクから壁一枚隔てた場所に並ぶ痛ましい記憶を見ると、いつも、ハッと現実に引き戻されるような気がします。
観光客として訪れると気づきにくいですが、ドゥブロヴニクを含むクロアチア、および旧ユーゴスラビア諸国は、未だにこの戦争の余波から完全に復興したとは言えない状態にあります。
20 代後半以上の人であれば、直接戦争を経験している人も多いです。
なお、もしかすると、観光で行っているのだから悲しいものは目にしたくない、という人もいらっしゃるかもしれません。
それはそれでいいと思うんです。
人はそれぞれ違うし、色々な人がいて、皆違うけどそれでいい、それがいい世界って、とても素敵な世界なので。
でも、せっかく旅をするなら、その土地のことを理解したい、という方もいらっしゃると思うんですよね。
歴史を知ることで、そこに暮らす人のこともよりよく理解することができますしね。
そういう方には、こちら、おすすめです。
「スポンザ」の名前の由来
海沿いの岩と岸壁の上にあるドゥブロヴニク旧市街。
ここを首都としていた中世のドゥブロヴニク共和国では、真水の確保は死活問題でした。
オノフリオの噴水ができ、山間の水源から真水を確保できるようになる前まで、ドゥブロヴニクは水資源を雨水に依存していました。
ドゥブロヴニクの家々には雨樋が巡らされ、このスポンザ宮殿の場所あたりに雨水が集められて、飲用水、および生活用水に当てられていました。
そして、これこそが「スポンザ」という名前の由来。
つまり、「sponza – spongia – スポンジ(海綿、および河川の堆積物が集まる場所)」なのです。
たった一文字の違いなのに、気分的にありがたみが 100 倍くらい違う!!
アクセス
ピレ門からストラドゥン(プラツァ通り)を時計台に向かってまっすぐ進みましょう。
旧市街の反対側の端まで行くと、時計台の根本に、旧港の方へ抜ける門の用になったところがあるはず。
スポンザ宮殿は、この門の手前の建物。
正面に小さいですが柱の並んだファサードがあり、紋章の入った鉄扉がついているのが目印です。