11 月 18 日は、1990 年代のクロアチア紛争において、最悪クラスの激戦地となった東部の都市、ヴコヴァルが陥落した日。
この日から、第二次世界大戦後のヨーロッパ最悪の大量虐殺事件と言われる、ヴコヴァルの虐殺(Vukovar massacre)が起こった 20 日にかけて、犠牲者の追悼のため、ドゥブロヴニクでも、聖ヴラホ教会の前でキャンドルに火が灯され、多くの人が祈りを捧げます。
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ヴコヴァルとは
ヴコヴァルは、クロアチア北東部スラヴォニアにある都市。
ドナウ川とヴカ川の合流地点に位置し、クロアチア最大の河港を擁します。
川を渡った対岸はセルビアのヴォイヴォディナ自治州。
こちらも第二次世界大戦時、枢軸国および軍事政権による凄惨な大量虐殺を経験した土地です。
ヴコヴァルは、6 世紀ごろのスラヴ人居住地を起源に、パンノニア君主国、ブルガリア帝国、クロアチア王国、ハンガリー・オーストリア帝国など、様々な権力者の支配下に置かれます。
1918 年のハンガリー・オーストリア帝国崩壊後は、バルカン半島全域を巻き込んだ混沌と戦乱に翻弄されることになりました。
ヴコヴァルの戦い
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二回の世界大戦と、その後続いた混沌の中、クロアチアとセルビアの間では民族間憎悪が極限まで悪化。
民族浄化の名の下、血で血を洗う悲惨な殺戮が繰り返されます。
この民族間対立は両国がユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の一部となった後も解消されることはなく、いっそう根深く、鮮明なものになっていきました。
1991 年 6 月 25 日、クロアチアと隣国スロベニアはユーゴスラヴィアからの離脱と独立を宣言。
セルビアを中心とするユーゴスラヴィア連邦軍はこれを容認せず、全面戦争へと発展しました。
セルビアと国境を接し、多くのセルビア人人口を抱えていたヴコヴァルは、このクロアチア独立戦争の中でも特に過酷な戦いの舞台となりました。
セルビア人とクロアチア人がそれぞれ民兵組織を構成し、お互いに暴虐の限りを尽くし合う様相を呈するようになったのです。
小規模な戦闘が各地で繰り返される中、後に「ヴコヴァルの戦い」として知られる戦闘となったのが、1991 年 8 〜 11 月にかけて行われたヴコヴァル包囲戦です。
戦車、ミサイルなど重装備のユーゴスラヴィア連邦軍兵士 36,000 名に対し、ヴコヴァルを守るのは猟銃や自作の地雷を中心とした軽装備のクロアチア防衛軍(※開戦当時クロアチアには正規軍が存在せず、警察が自警団のような役を果たしていた)と志願兵 1,800 名のみ。
食料や水の供給も絶たれたヴコヴァルは、ひどい時には 1 日 12,000 発もの砲撃が街に浴びせられるという凄惨な戦いを経て、1991 年 11 月 18 日に陥落。
ヴコヴァルはセルビアに統合され、残ったクロアチア系住人は民族浄化の対象となりました。
この時、数百人ものクロアチア軍兵士、および一般市民が虐殺され、20,000 もの住民が難民化したと言われています。
しかし、これだけでも壮絶なヴコヴァルの悲劇をより根深いものにするのが、この裏にある歴史です。
ヴコヴァルでは、もともと、クロアチア 人とセルビア人が対立していたわけではありません。
ここは、古くからこの地に根づいて暮らしてきたクロアチア人とセルビア人両者が一体となり、「(古くからの)地元民(スタロセディオチ:starosedioci)」として共存してきた平和な多民族都市だったのです。
しかし第二次世界大戦前後、そんなヴコヴァルに大量のドイツ人が入植してきます。
彼らは敗戦とともに引き上げていきましたが、減少した人口の穴を埋めるように大量に流入してきたのがセルビア系の「新参者(ドシュリャチ:došljaci)」です。
この新参の入植者達は、当然ながらこの土地の社会に馴染んでおらず、セルビア中央政府の国粋主義的プロパガンダに影響され、クロアチア系の隣人を敵とみなしました。
昔からここに住んでいたセルビア人はプロパガンダを受け入れず、クロアチア人に対する暴力行為にも反対の姿勢を見せました。
そのため、安全を求めて疎開する際、クロアチア系住民は、クロアチア警察より、むしろこれらのセルビア系の隣人を信頼し、鍵を預けて後のことを頼んでいったと言われています。
この紛争時、「クロアチア軍」「セルビア軍」「ユーゴスラヴィア連邦軍」といった各軍は、それぞれ純粋に民族によって固定されていたわけではありません。
ヴコヴァルの戦いでヴコヴァルを守ったクロアチア軍にも多くのセルビア人を始め、ウクライナ人、ベラルーシ人、ハンガリー人などが含まれていました。
実際、志願兵全体の実に 3 分の 1 が非クロアチア系だったと言われています。
当然、ユーゴスラヴィア連邦軍の方にも、長く共存してきた人々に対する攻撃へのためらいが見られました。
命令に従うことを拒否したり、勝手に集まってジョン・レノンの「Give Peace a Chance」などの反戦歌を歌ったり、戦いを放棄して逃亡したりというケースが後を絶たなかったという記録が残されています。
中には攻撃を選ばず銃で自決したり、セルビアの首都ベオグラードまで戦車で戻って、国会前で抗議したりした兵士までいました。
命令に服従させるため、上官が兵士を銃で脅さなくてはならないこともあった、そういう土地だったのです。
ヴコヴァルの虐殺
ヴコヴァル陥落前日の 11 月 17 日、ユーゴスラヴィア連邦軍とヨーロッパ連合監視委員の間で、ヴコヴァルから、傷病者など特に脆弱な状態にある人々の早急な退避に関する合意が交わされました。
この時、ヴコヴァルの病院にはおよそ 450 名が閉じ込められており、そのうち約 400 名が手当の必要な傷病者でした。
国際赤十字も交えた話し合いの結果、病院はヨーロッパ連合監視委員と赤十字の管理下に置かれ、退避者は国際機関の手に委ねられることが取り決められます。
しかし、20 日になって赤十字の使者団がヴコヴァルを訪れた時、彼らはユーゴスラヴィア連邦軍によって病院の手前で止められてしまいます。
ヨーロッパ連合監視委員と赤十字がそれぞれに状況打開にむけた努力を続ける中、病院に閉じ込められていた人々は秘密裏にバスで移動させられて行きました。
この時、移動させられた人々の数、およそ 300 人。
このうち、のちに病院職員であることが判明した 15 名は病院に送り返されましたが、残る人々はヴコヴァル近郊の村グラボヴォ(Grabovo)にあるオヴチャラ(Ovčara)農場に連行されました。
このうちの多くはクロアチア人でしたが、クロアチア軍側で戦ったセルビア人、ボスニア人、ハンガリー人、フランス人、ドイツ人も含まれていたそうで、年齢は 16 歳から 72 歳、女性も 1 〜 2 名含まれていたと言われています。
連行された人々は、オヴチャラ農場の倉庫に閉じ込められました。
彼らは、この農場で、セルビア民兵から数時間にわたる激しい暴行を加えられ、この時点で、数名が銃殺または撲殺されました。
そして、ユーゴスラヴィア連邦軍の介入で解放された 7 〜 8 名を除く約 260 名は、10 〜 20 名のグループに分けられて連れ出されて銃殺され、その場所にそのまま埋めこまれました。
この虐殺事件は、第二次世界大戦後のヨーロッパにおける最悪の虐殺事件だと言われています。
オヴチャラ農場はこの虐殺事件の後、強制収容所となり、3000 〜 4000 人もの人々がここに収容されました。
1992 年 2 月、国際連合安全保障理事会がクロアチアへ国際連合保護軍を派遣。
ヴコヴァルもその派遣地域に含まれることとなりました。同年のうちに、農場に埋め込まれた遺体の一部が発見され、この戦争犯罪が世に知られることとなりました。
紛争の続く中での発掘調査はなかなか進まず、最終的に状況が改善し、大掛かりな調査が始まったのは 1995 年になってからのこと。
2010 年までの調査で、194 名の遺体の身元が判明するところまでこぎつけました。
現在のヴコヴァル
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ヴコヴァルの戦いにより、ヴコヴァルの街は実にその 90 % が壊滅し、続くセルビア統治下では、ヴコヴァルはほぼ打ち捨てられた状態になっていました。
遅々とした歩みながら復興の努力が始まったのは、1998 年のクロアチアへの返還の後のことです。
この戦争により、ヴコヴァルでは、戦前のありようがまるで夢だったかのように、民族がはっきりと分離した状態となってしまいした。
クロアチア系住民、セルビア系住民は、同じ都市にいながらにして、文字通り、行く店も学校も異なる、別々の社会の中で生活しています。
住居や公共設備の多くは再建されたものの、当時の砲弾のあとも生々しい建物はまだ多く残ります。
特に河口にある水道塔は記念碑として、修復などされることなくそのまま保存されており、虐殺の行われたオヴチャラ農場の博物館とともに、当時の痛みを今に伝えるメモリアルとなっています。
産業、人口は回復傾向にはあるものの、多民族都市として発展したかつての商業都市ヴコヴァルの面影ははるか遠く、生活および経済インフラもまだ整ってはいません。
ユーゴスラヴィア紛争からおよそ 20 年が経過し、戦争を直接経験していない世代も増えてきました。しかし、バルカン半島の多くの人々にとって、戦争の傷跡が癒えるにはいまだほど遠いのが現状です。
そんな状態ながら、ヴコヴァルの悲劇はクロアチア紛争時の民族的結束の象徴として理想化されがち。
国粋主義的な人々が巡礼に訪れる場所になっていることに警鐘を鳴らす人も出てきています。
ドゥブロヴニクも、ヴコヴァルと同じように熾烈な包囲戦を経験しましたが、最悪の事態は免れ、戦後は恵まれた観光資源をもとに、クロアチア随一の経済成長を実現しました。
現在では、戦時中の荒廃が幻に思えるような、目覚ましい復興を遂げています。
そんなドゥブロヴニクですら、ちょっと街を離れれば紛争時に見捨てられ、放置された、弾痕だらけの廃墟を目にすることも珍しくはありません。
ドゥブロヴニクで行われるヴコヴァル追悼のキャンドルサービスは、ただでさえ美しい旧市街に多くのキャンドルが灯り、幻想的と言えるほどの美しさがあります。
しかし、「きれい、美しい」の裏側の意味を知り、観光客という立場であっても、人として痛みと葛藤をほんのわずかでも共有する機会を持ち、よりよい明日を作るための糧にしていきたいものです。