クロアチアの歴史

先史時代から続く、非常に長い歴史をもつクロアチア。
今は美しく平和な国ですが、周辺を大国に囲まれ、大国の思惑に翻弄される苦難の年月も長く経験してきた場所でもあります。

1990 年代のユーゴスラヴィア紛争時の記憶は今も根強く、「危なそう」というイメージを持たれることも多いですが、実は現在のクロアチア、実はヨーロッパでも特に治安のよい地域の一つ。
今回はそんなクロアチアの歴史をざっくりとまとめます!


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目次

先史時代〜古代(紀元前)

先史時代

  • 前旧石器時代
    • イストリア、シャンダリャ(Šandalja)洞窟のアウストラロピテクス骨格が最古の出土品
  • 中期石器時代
    • ネアンデルタール人によるムスティエ文化がバルカン半島にも波及
  • 前 6500 〜 5000 年頃
    • 農耕牧畜の伝播と定着

古代ギリシャ時代

  • 紀元前 12 世紀頃:
    • ダルマチアを中心にギリシャ人が居住地を作って定住
  • 紀元前 4 世紀:
    • アレクサンドロス大王による征服、マケドニアへの併合。
    • 王の死後はローマ帝国が進出

ローマ時代〜クロアチア統一国家の樹立と崩壊(

ローマ帝政時代後期

  • 3 世紀後半:
    • ダルマチア出身の ディオクレティアヌス帝がローマ皇帝として即位。
    • 前 4 世紀初頭に退位し、スプリトに宮殿を建築して引退
  • 4 世紀後半:
    • ローマ帝国が東西に分裂、パンノニアは西ローマ帝国、ダルマチアはビザンツ帝国(東ローマ帝国)によって支配される形に
  • 6 世紀後半:
    • モンゴル系のアヴァール人来襲。
    • 現在のクロアチア人の祖先にあたるスラヴ系民族がビザンツ帝国内へ大移動を始め、定着

クロアチア統一国家の樹立〜崩壊

  • 9 世紀初頭:
    • フランク王国がパンノニア、ダルマチア北部を制圧
    • 対抗するビザンツ帝国はダルマチア南部と同盟し宗主国となる
  • 9 世紀半ば:
    • クロアチア公 トゥルピミル 1 世の統治開始。
    • 公式にはフランク王国配下にあったものの、フランク王国とビザンツ帝国との対立をうまく利用し、実質的な自治を実現
  • 9 世紀半ば〜後半:
    • ビザンツ帝国がフランク王国を撃退。パンノニア、ダルマチア奪還
  • 9 世紀後半:
    • ダルマチア・クロアチア公ブラニミル、ビザンツ帝国派の大公、ズデスラヴを殺害。
    • この功績をローマ教皇に認められ、国家としての独立の承認を受ける
  • 10 世紀前半:
    • トミスラヴ 1 世の戴冠。この時初めてローマ教皇より正式に「クロアチア王」という称号が与えられる
  • 11 〜 12 世紀:
    • 王位継承をめぐる争いが続く。結果的に、姻戚関係にあったハンガリー王家によりクロアチア併合

ハンガリー/オーストリア、ヴェネツィア共和国、オスマン帝国による分割支配時代

ハンガリー王国とヴェネツィア共和国による分割支配

  • 11 〜 12 世紀:
    • ダルマチアの一部にヴェネツィア共和国が進出、ザダルなどの都市を支配下に組み入れる
  • 12 世紀後半:
    • ハンガリー王国によるザダル奪還
  • 13 世紀前半:
    • ヴェネツィアによるザダル奪還。ヴェネツィアはその後もダルマチアにおける勢力を拡大

モンゴル帝国の侵攻

  • 13 世紀半ば:
    • モンゴル帝国、クロアチア侵攻にするも、オゴデイ・ハンの死去により短期間で退去。
    • 征服は免れたものの略奪・破壊行為によって大規模な被害が発生

ハンガリー帝国とオスマン帝国の覇権争いの激化

  • 14 世紀:
    • ハンガリー王国によるダルマチア奪還
    • ドゥブロヴニク、ビザンツ帝国、ヴェネツィア、ハンガリー王国(後にハプスブルグ帝国)それぞれからの庇護を取り付け、自由商業都市として発展を始める
  • 15 世紀初頭:
    • オスマン帝国、バルカン侵攻開始。16 世紀中には元のクロアチア王国の国土の  3 分の 2 にあたる地域の支配権を獲得
    • ドゥブロヴニク、共和国として独立(ドゥブロヴニク共和国は 19 世紀初頭まで存続)
  • 15 世紀半ば:
    • オスマン帝国によりビザンツ帝国滅亡
  • 15 世紀 〜 18 世紀:
    • 多数のクロアチア人が戦乱の影響で避難、移住。残された空白地帯にボスニア、セルビア、ルーマニアなどの他地域からの人々が侵入、入植。
    • 他民族化が進み、その後の民族問題の素地が作られていく
  • 16 世紀 〜 18 世紀:
    • ハプスブルグ帝国(当時はオーストリア大公国)、オスマン帝国に対抗するために軍政国境地帯を設置。
    • ハプスブルグ帝国統治下のクロアチアもこれに含まれる。ハプスブルグ帝国の絶対主義制の下、クロアチア人の農奴化が進む

ナポレオン戦争

  • 18 世紀後半:
    • ナポレオン率いるフランス軍によりヴェネツィア共和国滅亡。ヴェネツィアの支配下にあったダルマチアの大部分もフランスに併合される
  • 1804 年:
    • ハプスブルグ帝国、「オーストリア帝国」を公式国名として採用
    • 第一次セルビア蜂起発生。この後の第一次、第二次セルビア蜂起を経て、セルビアは 1830 年に公国として自治権獲得
  • 1806 年:
    • フランス軍、ドゥブロヴニクに侵入、制圧
  • 1808 年:
    • ドゥブロヴニク共和国滅亡、フランス帝国に併合される
  • 1815 年:
    • フランス帝国解体、フランス統治下にあったダルマチア地方はハプスブルグ帝国に併合される。
    • 自治権の保持を希望するクロアチア人の要望は受け入れられず、民族意識の高まりへと発展していく

諸国民の春〜自治権の獲得

諸国民の春

  • 19 世紀初頭 〜 半ば:
    • ヨーロッパ各地で市民階級の興隆と絶対主義の衰退が始まり、「諸国民の春」への流れが生まれる
    • バルカン半島において自治権の奪還、市民権の拡大などを求める動きが活発化。
    • セルビアを中心に、セルビア、クロアチア、ボスニアなどをすべて含む南スラヴの統一、独立を目指すユーゴスラヴィア統一主義が台頭するが、クロアチア、ボスニアなど民族別に独立を目指す動きも常に存在。
    • 宗教の違いも絡んで状況は混迷、民族間の対立感情の悪化を招く
  • 1841 年:
    • クロアチア王国時代から続く名家出身の貴族で、クロアチア独立支持者だったオーストリア帝国軍クロアチア部隊司令官、ヨシップ・イェラチッチ、クロアチア総督に就任。
    • イェラチッチはハンガリー王国に対してクロアチア独立を要求、ハンガリー革命においてオーストラリア帝国側の軍人として革命の鎮圧に貢献した。
    • またクロアチア総督として農奴解放を実施。
    • クロアチアでは国民的英雄とされており、首都ザグレブにある彼の名を冠したイェラッチッチ広場には、イェラチッチ騎乗像が設置されている

オーストリア帝国の分割とクロアチアの自治獲得

  • 1866 年:
    • プロイセン王国とオーストリア帝国との間で普墺戦争勃発、オーストリア帝国敗退
  • 1867 年:
    • ハンガリー王国、オーストリア帝国から独立。
    • オーストリア帝国との同君連盟を樹立し、オーストリア・ハンガリー帝国が成立
  • 1868 年:
    • ハンガリー王国統治下のクロアチア、制限付の自治を認められる。
    • なお、当時の議会には、親ハンガリー王国派、南スラヴ統一派、クロアチア完全独立派の三派閥があった

帝国支配の弱体化 〜 第一次世界大戦

オスマン帝国の弱体化

  • 1878 年:
    • ベルリン条約締結により、セルビア、モンテネグロ、ルーマニア独立。
    • マケドニアは大ブルガリア公国からオスマン帝国に返還。
    • 自治の認められたボスニア・ヘルツェゴヴィナはオーストリア・ハンガリー帝国に占領されることとなった
  • 1908 年:
    • オスマン帝国マケドニア駐留軍による青年トルコ人革命発生。
    • 直後の混乱に乗じてオーストリア・ハンガリー帝国はボスニア・ヘルツェゴビナを併合。
    • ブルガリア自治公国、独立を宣言。
    • オスマン帝国内の自治区だったクレタ島はギリシャへの編入を宣言。

第一次・第二次バルカン戦争

  • 1912年:
    • ブルガリア、セルビア、ギリシャ、モンテネグロがバルカン同盟を結んでオスマン帝国に宣戦布告し、第一次バルカン戦争勃発
  • 1913 年:
    • 第一次バルカン戦争によって獲得した土地を巡ってバルカン同盟各国の利害が対立、第二次バルカン戦争に発展
    • ブカレスト条約により、アルバニアの独立が認められる。
    • ブルガリア、オスマン帝国の両国は国土を大きく喪失。
    • セルビア、モンテネグロ、ギリシャは国土を新たに拡張したが、この時、人口の大半をアルバニア人が占めるコソヴォ地方はセルビアとモンテネグロの間で分割され、その後のコソヴォ紛争の火種をつくる

第一次世界大戦とオーストリア・ハンガリー帝国の崩壊

  • 1914 年:
    • 6 月 28 日、サラエヴォ事件発生。
    • この日、オーストリア・ハンガリー帝国に併合され、強い不満が充満するボスニア・ヘルツェゴビナをオーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント皇太子夫妻が訪問。
      この日はスラヴ諸国の重要な聖人ヴィトゥスの祝日であり、かつ、1389 年にセルビアがオスマン帝国に歴史的敗退を喫した コソヴォの戦いが行われた日でもあったため、この訪問はボスニア住民、特にセルビア系住民の神経を逆撫でしたと言われる
    • サラエヴォ事件で使用された武器がセルビア政府からの支給品だったことなどを理由に、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビアを非難。
      セルビアにとって受け入れがたい要求を含むオーストリア最後通牒をつきつけた。
      この通牒に対し、セルビアが 2 点を除いて同意。
      しかし、オーストリア・ハンガリー帝国は、48 時間以内の無条件受諾が果たされなかったことを理由にセルビアに宣戦布告。
    • これを機に第一次世界大戦勃発
  • 1918 年:
    • 第一次世界大戦終結
    • オーストリア・ハンガリー帝国崩壊

ユーゴスラヴィア王国の建国と崩壊

ユーゴスラヴィア王国の建国

  • 1918 年:
    • セルビア王国、モンテネグロ、スロベニア、クロアチア、ボスニアを合併した連合王国、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(のちのユーゴスラヴィア王国)建国。
    • 連合王国ではあったものの前身はセルビア王国であり、セルビア人中心の政治に対し、非セルビア系住民の反発、民族対立が続いた

世界恐慌

  • 1929 年:
    • 世界恐慌発生。バルカン諸国も経済危機に巻き込まれ、ドイツへの経済依存が強まっていく
  • 1930 年:
    • 民族主義団体、ウスタシャ・クロアチア革命機構発足
  • 1939 年:
    • クロアチアに自治が認められ自治州設立。
    • しかし独立運動の勢いは衰えず、セルビア人に対する民族感情は悪化の一途を辿る。
      また、自治州設立以降、国内の各民族の自治を求める動きが活発化、ユーゴスラヴィア国内の統制維持が困難な状態に
    • 第二次世界大戦勃発。当初、ドイツの圧力を受けたユーゴスラヴィアは中立の姿勢をとったが、のちに三国同盟に調印

ユーゴスラヴィア王国瓦解

  • 1941 年:
    • ユーゴスラヴィア国内で政変が起き、三国同盟からの脱退の動きが発生。これがドイツの逆鱗に触れ、攻撃を受けることに。
    • 同年 4 月、ユーゴスラヴィア王国消滅

クロアチア独立国の成立と崩壊

クロアチア独立国の成立

  • 1941 年:
    • ドイツによるユーゴスラヴィア占領下、ウスタシャの指導者アンテ・パヴェリッチを総統とするファシズム国家、クロアチア独立国発足
    • セルビア人、ユダヤ人、ジプシーなどを民族浄化の対象とした大量虐殺が開始される

パルティザンの発足 

  • 1941 年:
    • ドイツおよびクロアチア独立国への抵抗組織として、ユーゴスラヴィア王国軍の将兵を中心とした民族主義的抵抗組織チェトニック、およびヨシップ・ブロズ・ティトーを最高指導者とする共産主義的抵抗組織パルティザンが発足。
    • チェトニックがセルビア王国とセルビア人の保護を目的に非セルビア人の大量虐殺による民族浄化へ向かったのに対し、パルティザンはユーゴスラヴィアに住むすべての民族の権利擁護を目指し、民族の垣根を超えて広く支持を受ける。
    • パルチザンは第二次世界大戦終戦当時には 80 万人の兵士を抱える規模に拡大、ユーゴスラヴィア人民の解放に大きな力を果たした

 第二次世界大戦参戦 〜 クロアチア独立国消滅

  • 日独伊三国軍事同盟、続いて反共同盟に加盟、ソ連、米、英に宣戦布告
  • 1945 年:
    • 5 月 8 日、ドイツ降伏。
    • 同日、クロアチア独立国の独立も取り消され、国土はすべて民主連邦ユーゴスラビア臨時政府に返還される
  •  

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の成立と変容

ユーゴスラビア連邦人民共和国の発足

  • 1945 年:
    • ユーゴスラビア連邦人民共和国発足
  • 1946 年:
    • ユーゴスラヴィア連邦を構成する共和国として、マケドニア社会主義共和国、セルビア社会主義共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国、クロアチア社会主義共和国、スロベニア社会主義共和国、モンテネグロ社会主義共和国の 6 ヶ国が制定
    • 初代首相はパルチザンを率いたティトー、大統領はイヴァン・リバル
    • 建国直後は同じ共産主義国であるソ連との関係が深く、国際共産主義運動であるコミンフォルムの拠点もユーゴスラヴィアの首都、ベオグラードに置かれていた。
      この間、領空に侵入したアメリカ航空機を撃墜するなどして西側諸国の怒りを買う。
      しかしソ連による支配も拒み、独自路線を採択したことでソ連の怒りも買い、コミンフォルムから除外される。
      このため、ユーゴスラヴィアは社会主義連邦でありながら、西側諸国にも東側諸国にも属さない地域となった
    • ティトー指導のもと、ユーゴスラヴィア政府は歴代の権力者、支配者により人為的・組織的に作り出され、かきたてられてきた民族間の憎悪と対立を「兄弟殺し」と位置づけ、連邦内のすべての民族が対等であり、平和的に共存するべきとする「兄弟愛と統一」を連邦の基本理念として統治を行う。
      「兄弟愛と統一」は民族間の平等を実現する反面、この理念に反するものを徹底的に排除するという側面も持ち合わせた

ティトー大統領の政治と没後の混乱

  • 1953 年:
    • ティトー、ユーゴスラヴィア大統領に選出される
  • 1963 年:
    • ティトー、ユーゴスラヴィア終身大統領となる
  • 1966 年:
    • ユーゴスラヴィア秘密警察の長官で、副大統領でもあったアレクサンドル・ランコヴィッチがティトーの寝室に盗聴器を仕掛けた疑いにより突然解任される。
    • ランコヴィッチとの関係の深かったコソヴォ自治州が反乱を起こす事態に発展
  • 1969 年:
    • スロヴェニア、クロアチアと中央政府が国際復興開発銀行からの借款の使途をめぐって対立
  • 1971 年:
    • ザグレブ大学の学生が主体となり、クロアチアの国際連合加盟とクロアチア軍の創設を訴えるデモ、「クロアチアの春」が実施される
  • 1980 年:
    • ティトー死去。
    • 求心力を失ったユーゴスラヴィア連邦は統制を失い、民族間の緊張が徐々に高まっていく
  • 1984 年:
    • サラエヴォ・オリンピック開催
  • 1987年 〜 1989 年:
    • スロボダン・ミロシェヴィッチがセルビア共和国幹部会議長に就任、民族主義者に訴えるポピュリスト的言動で徐々に支持を拡大。
    • 自治州から対等な共和国への格上げを望むコソヴォ自治州に対する弾圧を開始
    • ミロシェヴィッチの動きに対し、スロヴェニア、クロアチアが公然と反発を開始

クロアチアの独立とクロアチア紛争

ユーゴスラヴィア共産主義同盟からの脱退

  • 1990 年:
    • スロヴェニア、クロアチア代表がユーゴスラヴィア共産主義同盟脱退を宣言。
      ユーゴスラヴィア構成国すべてで複数政党制の自由選挙が行われるようになる。クロアチアでは民族主義政党であるクロアチア民主同盟が勝利、政権を掌握
    • クロアチアの領内のセルビア人が蜂起、セルビア人のみで構成されるクライナ・セルビア人自治区の設置を宣言。
      この自治区の範囲はかつてハプスブルグ帝国が設置し、セルビア人を入植させた軍政国境地帯の範囲とほぼ一致し、クロアチア国土の 3 分の 1 に及んだ
    • スラヴォニアの帰属をめぐってクライナ・セルビア人自治区軍とクロアチア警察軍が対立。
      世界遺産であるプリトヴィツェ湖群で衝突が発生し、プリトヴィツェ湖畔はクライナ・セルビア人自治区に占拠される。
    • プリトヴィツェはこの過程で危機遺産となるが、1995 年のクロアチアによる奪還に続いて地雷撤去が進み、1997 年には危機遺産リストから除去された

ユーゴスラヴィアからの離脱

  • 1991 年:
    • 6 月 25 日、スロヴェニア、クロアチアがユーゴスラヴィアからの離脱と独立を宣言。
    • ユーゴスラヴィア人民軍との軍事衝突に発展
    • 国内のセルビア人比率が低く、間にクロアチアがあるためセルビアと国境を接していないスロヴェニアの独立紛争は 10 日程度で終了、スロヴェニアの独立承認

クロアチア独立戦争

  • 1991 年
    • クロアチア領内に住むセルビア人とクロアチア軍の戦闘が散発する中、9 月 22 日にユーゴスラヴィア連邦軍がクロアチアの首都ザグレブを襲撃、全面的な戦闘へと発展。
    • セルビア系住民が多く、セルビアと国境を接するスラヴォニアでは特に激しい戦闘が行われ、中でもヴコヴァルの戦い、およびヴコヴァルの虐殺は凄惨を極めるものとなった。
    • 10 月 1 日、ユーゴスラヴィア人民具がドゥブロヴニクへの攻撃開始。
    • ドゥブロヴニク周辺地域の大部分がセルビア・モンテネグロ連合軍によって陥落、ドゥブロヴニク市は物資の供給もままならない状態で包囲戦を強いられる。
    • 世界遺産となっている旧市街も激しい砲撃の対象となり、連合軍の蛮行は世界中から激しく非難されることとなった。
    • また、包囲戦が終了し、連合軍が撤退した後もドゥブロヴニクの東にあるコナヴレ地区はボスニア・ヘルツェゴビナ連邦のスルプスカ共和国軍からの散発的な攻撃や略奪行為などに苦しめられた

停戦 〜 ユーゴスラヴィアの崩壊

  • 1991 年:
    • 11 月、マケドニア、ユーゴスラヴィアからの離脱と独立を宣言
    • 12 月、クライナ・セルビア人自治州が共和国としての独立を宣言。
      ユーゴスラヴィア連合軍と共にクロアチア領内への侵攻を進める
  • 1992 年:
    • 1 月、クロアチアとユーゴスラヴィアの間で停戦合意
    • 2 月、国際連合の安全保障理事会、クロアチアに国際連合保護軍派遣
    • 3 月、ボスニア・ヘルツェゴビナ独立宣言
    • 4 月、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人議会、「スルプスカ共和国」として独立を宣言。
      セルビア人のスルプスカ共和国、ボシュニャク人のボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア人のヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国との間の内戦、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に発展
    • 5 月、ユーゴスラヴィア軍公式撤退。
      しかし、多くの武器および人員がクライナ・セルビア人共和国領内に残り、治安維持軍に参加。
      領内に残留する非セルビア人の弾圧を継続。
  • 1995 年:
    • 5、8 月、クロアチア軍、クライナ・セルビア人共和国に対する大規模軍事作戦、「嵐作戦」を決行。
      クライナ・セルビア人共和国は崩壊し、大部分がクロアチア支配下に復帰。
      この際、セルビア人に対する迫害が行われた疑いがあり、ほぼ全員のセルビア人が住居を追われ、難民化
    • 8 〜 9 月、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の終結を目指し、NATO 軍によるセルビア軍空爆
    • 11 月、「デイトン合意」締結によりボスニア・ヘルツェゴビナ紛争締結

終戦 〜 現在

  • 1999 年:
    • 民族主義的の急先鋒だった初代クロアチア大統領、フラニョ・トゥジマン死去後、クロアチアの民主化が加速
  • 2001 年:
    • クロアチア国会の上院が廃止され、上下院の二院制から一院制へ移行
  • 2013 年:
    • EU 加盟
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