ドゥブロヴニク旧市街の観光スポット: ラザレティ(検疫所)

旧市街をプロチェ門から出てバニェビーチ方向に向かうと、ビーチの手前に石造りの古い建物があります。こちらは、ドゥブロヴニク共和国時代に検疫所(Lazareti、英語/イタリア語では Lazaretto)として利用されていた建物。城壁で閉ざされた市内に病原菌が持ち込まれることを防ぐため、あえて城壁外に設けた予防的な隔離施設です。

現在ラザレティは、本来の目的とは全く異なる、様々なタイプの文化の発信地。アートがテーマのカフェやレストラン、それに、世界の有名 DJ が訪れてクラブイベントを開くドゥブロヴニクの最先端クラブまで、中世の人がみたら驚くような目的で使用される大変身を遂げています。


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ドゥブロヴニクにおける検疫の歴史

ドゥブロヴニク共和国が最盛期を迎えた中世といえば、黒死病、ペストが大流行し、世界人口が激減したことがよく知られています。
最終的には当時の全世界の人口の 3 割がペスト罹患により死亡するという大変な災厄となりました。

ドゥブロヴニクのように城壁で囲まれ、閉ざされた都市は特に、壊滅的な疾病の流行が発生した場合、その影響は決定的なものになりがち。
ドゥブロヴニク共和国では、幸運なことに壊滅的な大流行に至ることはなかったものの、1348 年を皮切りに、数度、小規模なペストの流行が実際発生し、多くの犠牲者をだしています。

これらの悲劇のあと、ドゥブロヴニク共和国は公衆衛生の徹底的な強化に動き、その後、流行の封じ込めに成功しました。
この検疫所、ラザレティも、その公衆衛生・疾病管理の一環として造られたものです。

ドゥブロヴニク共和国が、正式な検疫手続きの導入を制定したのは、1377 年 7 月 27 日。
これは同様の取り組みとしては世界最初の例となります。
また、続く 1390 年には、公衆衛生局が設置されていて、こちらも、記録が残る限りでは世界初という、当時最新鋭の取り組みでした。

検疫開始当初は、まだラザレティは建てられておらず、検疫所として利用されたのは、アドリア海に浮かぶ島。

東はボスニア・ヘルツェゴビナとの国境に近いモルナット島(Molunat)。
西はムリェト島(Mlijet)。

この 2 つの島を境界として、その間の海域へ入る前に、まず検疫期間として30 日間、いずれかの島で待機しなくてはなりません。
待機期間が無事に明けたら、続いてモルナット島の近くのムルカン島にあったフランシスコ会修道院、またはムリェト島のベネディクト会修道院で健康診断を受け、合格することが義務づけられていました。

その後 15 世紀に入ってから、モルナット – ムリェト間はかなり距離が離れていることなどを理由に、検疫所はよりドゥブロヴニクに近い場所で行う形に改められました。

しかし、すぐに今のラザレティが作られたわけではありません。

まず 15 世紀初頭、ピレ門からグルージュへ向かう途中にあるダンチェ(Danče)に検疫の場所が設けられました。
正式な検疫所をここに建設する計画もあったようですが、こちらは完成には至らず、代わりに、現在のプロチェ門そばにラザレティが建設されることになります(1590 〜 1642)。

また、ラザレティの建設に伴い、検疫期間も 30 日から 40 日に改められました。


ドゥブロヴニク共和国時代の検疫の仕組み

ラザレティには 4 つの区分があります。

ドゥブロヴニクへの訪問者は、まず市外から一番離れた区分に入ってそこで 10 日間過ごします。
ここで何の病気を発病することもなく健康であれば、次の区分へ移ることが許され、そこでまた 10 日間過ごします 。
これを繰り返して、計 40 日間にわたって経過を観察され、その間ずっと健康であればやっとドゥブロヴニクへ入る許可がだされます。

この検疫は厳正に実施されていて、検疫期間中にラザレティを抜け出し、市内に立ち入った場合は死罪を含む厳罰に処されたそうです。

管理人
もっと詳しく知りたい!と思った方は、かなり本気の参考文献になりますが、Expelling the Plague: The Health Office and the Implementation of Quarantine in Dubrovnik, 1377-1533 という本をおすすめします!

医学の歴史を専門に研究され、修士論文、博士論文にもドゥブロヴニクの疫病のコントロールを題材に取り上げていらっしゃる方の著作で、非常にしっかりした研究に基づいて書かれた素晴らしい内容です。

「検疫」の語源

英語で「検疫」を「quarantine (クァランタイン)」と言います。
これはイタリア語の「40(quaranta、クァランタ)」から派生した言葉なのが、なんの 40 かというと、これがこのラザレティで過ごす 40 日。

つまり、ドゥブロヴニクの始めたこのシステムが、現在普通に使われている英単語の語源になっている、ということになります。

なお、日本語の Wiki などを見ると、語源は「イタリアのラグーサ港」の検疫システム、と記載されていますが、実はこの「ラグーサ」、または「ラグサ(Ragusa)」というのは、イタリア語でドゥブロヴニクを指す言葉。

別の国家ですので、「イタリアのラグサ」というのは、ちょっと正確ではない記述ですね😊

「ラザレティ」あるいは「ラザレット」という語は、キリストによって死から蘇ったとされる聖書上の人物、ラザロが語源となっているそうです。


現在のラザレティ

現在、ラザレティは「検疫所」という本来の目的とは全く異なる、文化の発信地として活用されています。

例えば、民族舞踊団リンヂョはここを拠点に活動していますし、現代アートや独立系映画などのエキシビジョンが開催される催事場、アートワークショップ、カフェなどもあります。
また、世界中の有名 DJ が訪れてイベントを開くドゥブロヴニクの最先端ナイトクラブ、クラブ・ラザレティもここに入っています。

現地の方によると、クラブとして使用されることになった時には反対意見もそれなりにあったそう。
ただ、できてしまった後は、他に例を見ないクールな場所として特に若者に大人気となり、概ね皆さん好意的な見方に変わっていったそうです。