ロクルム島: Lokrum Island

ロクルム島: Lokrum Island

ドゥブロヴニク旧市街からわずか 600m、フェリーで 10 〜 15 分の場所に位置するロクルム島。さまざまな伝説が残り、自然保護区となっている緑豊かなこの島は、旧市街の喧騒を離れ、静かなひとときを過ごすのに最適な、まさに宝箱のような場所。

中世の修道院や、貴重な植物が蒐集された植物園、「死海」と呼ばれる塩水湖、石灰岩の白がアドリア海の碧に映えるビーチ、それに、たくさんいる野生の孔雀や兎との出会いなど、旧市街とはまた違うドゥブロヴニクの姿を楽しむことができます。


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ロクルム島への行き方

ドゥブロヴニクの旧港からロクルム島へのフェリーが出ています。シーズンや海の状態により本数やスケジュールは異なりますので、旧港に行って、ロクルム島行きフェリー乗り場のカウンターで確認することをお勧めします。

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ロクルム島の見どころ

Lokrum

【ベネディクト会修道院】

現在残る修道院は、12 〜 13 世紀のロマネスク・ゴシック様式の建築、15 〜 16 世紀のゴシック・ルネサンス様式で建て増しされた建築、および 19 世紀に入ってからハプスブルク・オーストリア帝国のマキシミリアン大公によって建てられたネオ・ゴシック様式、ネオ・ルネサンス様式、ネオ・ロマネスク様式の混合建築の 3 部からなっています。

ただ、15 〜 16 世紀に建立された部分は 1667 年のドゥブロヴニク大地震でその大部分が崩壊してしまい、現在は回廊を含む一部のみが残っているにすぎません。そして、この崩れずに残った回廊の入り口には、次のような、示唆にとんだ言葉が刻まれており、今でもその文字を確認することができます。

“CONCORDIA. RES. PARUAE. CRESCUNT DISCORDIA.MAXIMAE.DILABUNTUR”
「調和は小さなものを大きく育ててゆく。調和がなければ、強大なものとて滅んでゆく」


【植物園】

現存する植物園を始め、ロクルム島の庭園の大部分はマキシミリアン大公統治下で再整備されたものです。こちらはただの美しい庭園ではなく、世界の他の地域から植物(※特に薬効のある植物や農業、林業への貢献が期待される植物)をドゥブロヴニク周辺の気候に移植した場合の適応性を研究することを主な目的の一つとして作られました。

しかし、1991 〜 1992 年の独立戦争時、ロクルム島も攻撃対象となり、庭園は 50 発もの砲撃を受けて壊滅、貴重な資料もほとんどが焼失してしまいました。戦後、庭園は一般公開されている部分、されていない部分共にドゥブロヴニク大学の海洋・沿岸研究部門の管理下に置かれ、ゆっくりと、しかし徐々に修復されつつあります。

【自然】

ロクルム島は自然保護区となっており、現在は無人島になっています(※後述のロクルム島の呪いのせいで無人なのかもしれません)。そのため、島はどこへ行っても自然がいっぱいです。

島内にカフェやレストランもありますが、ドゥブロヴニクから食べ物、飲み物を持参してピクニックするのも気持ちがよくておすすめです。船着場の反対側に、唯一ベネティクト会時代から残る古いオリーブの木立があります。この部分は平坦で、ちょっとした広場のようになっているので、お子さん連れの家族のピクニックにもぴったりです。

【ロクルム島の死海】

フェリーを降り、左手の方から島を回っていくと、島の中に小さな湖(というか池?)が見えてきます。孔雀が歩き回る森の中で、透明度の高いエメラルドグリーンの塩水湖で泳ぐというのはなかなかユニークな経験。ロクルム島観光の一つの目玉になっています。

なお、この湖は「死海」とは呼ばれていますが、海と繋がっているので、特に塩分濃度が高いことはなく、体が浮いたりするわけではありません。


【ロイヤル要塞】

ナポレオン率いるフランス軍によって築かれた要塞。ロクルム島の最高ポイントにあり、ドゥブロヴニクの城壁が一望できます。ロイヤル要塞までの道は石がゴロゴロした傾斜のきつい登り道になっていますが、努力の甲斐のある絶景が待っています。ハイキング気分で周りの植物を楽しみながらゆっくり登るのもおすすめです。

【ビーチ】

ロクルム島には何箇所か、水辺に降りて泳ぐことができるポイントがあります。砂浜のビーチはなく、石灰岩の岩場、またはコンクリート護岸になっていますが、海の透明度は高く美しいです。なお、島の最南端にはヌーディストビーチもあります。利用者は基本的にはご年配の男性が多く、地元の人によると「ドイツのおじいさんばっかりだから見たくない」だそうです。

【孔雀】

ロクルム島の孔雀は、マキシミリアン大公時代にカナリア諸島から持ち込まれました。島で定着し、繁栄しています。とにかくたくさんいる上、人を恐れないので、かなり近くから写真をとることもできます。至近距離にある茂みや木立で突然ものすごい声で鳴いたりするので、時々びっくりさせられます。

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ロクルム島の伝説

ロクルム島は、島にまつわる数々の伝説でも知られています。

【ドゥブロヴニクの大火とベネディクト会への島の寄贈】

ベネディクト会修道院が初めて文書に表れたのは 1023 年のこと。記録によると、この年、ドゥブロヴニクは突然の大火に見舞われました。当時の建造物はほとんど木造だったため、ドゥブロヴニクの大半が焼失するほどの大惨事となったそうです。

そしてこの大火が発生したのが 7 月 11 日、まさに聖ベネディクトの日だったのです。

ドゥブロヴニク市民が聖ベネディクトに鎮火を求めて祈りを捧げたところ、火はたちどころに収まり、感謝の印としてロクルム島はベネディクト会に寄贈されました。

【リチャード獅子心王とロクルム島、ドゥブロヴニク大聖堂】

その勇猛さからリチャード獅子心王と称えられた英国のリチャード I 世。実は、ロクルム島に深いつながりのある人物なのです。

第三次十字軍からの帰還途中、嵐に巻きこまれ、乗っていた船が難破してしまいます。海に投げ出されたリチャード獅子心王は、神に助けを祈り、命が助かった場合は、最初に足を踏み入れた場所に教会を建立することを約束しました。

そして祈りの甲斐あってか、無事嵐を乗り切ることができたリチャード獅子心王。彼が漂着し、最初に足を踏み入れたのが、他でもないロクルム島でした。

リチャード獅子心王は誓い通り、ロクルム島が属するドゥブロヴニク共和国に教会建立の費用を提供を申し出ます。しかし、当時、ロクルム島はドゥブロヴニクの一部ではあったものの、ベネディクト会修道院の管理下にありました。そのため、ドゥブロヴニク共和国は、この資金を、ベネディクト会のためだけに使うことにならないよう、一計を案じます。

ロクルム島の教会建設にはドゥブロヴニク共和国の資金を使い、リチャード獅子心王からの資金は旧市街内の大聖堂建設に充てることを提案したのです。

この提案は受け入れられ、ドゥブロヴニク旧市街にはドゥブロヴニク大聖堂、ロクルム島にはより小規模な聖母被昇天教会が建てられました。なお、ロクルム島に建てられた聖母被昇天教会は、今も植物園の近くで見ることができます。


【ロクルム島の呪い】

美しく、市民の憩いの場所となっているロクルム島。しかし、そんな姿とは裏腹に、実は恐ろしい呪いのかかった島としても知られているのです…。

発端となったのは 1808 年、ナポレオン率いるフランス軍によるドゥブロヴニク共和国の滅亡です。旧市街に侵攻したフランス軍は、旧市街だけでなく、このロクルム島も占拠しました。そして、数世紀にわたってこの島を所有してきたベネディクト会に対し、ロクルム島からの退去を命じたのです。

当然、ベネディクト会はこれに反発。修道士達は、あらゆる手を尽くしてロクルム島に残ろうとしました。しかし、結果は実らず…。努力は徒労に終わり、彼らは島を去ることを余儀なくされました。

島を去る前の晩のこと。ベネディクト会修道士達は、島内の聖母被昇天教会で最後のミサを行いました。ミサの後、彼らは黒い修道服のフードを目深にかぶり、逆さに持ったろうそくから大地にロウを垂らしながら、一列になって島を 3 周し、島に呪いをかけたそうです。「ロクルム島を私利私慾のために所有する者に災いあれ」と…。

その後、ロクルム島はベネディクト会の手に戻ることはなく、何人もの所有者を迎え入れることになりました。しかし、所有者の多くが実際に悲劇劇な最後を迎えたため、ベネディクト会の呪いは、その後ずっと語り継がれる伝説となりました。

破滅の道を辿った人物のなかでも、特に有名なのが、ドゥブロヴニク共和国を滅亡させたナポレオン。

彼はロクルム島に要塞を建設し、しばらく滞在したそうですが、まさにこのドゥブロヴニク陥落の 1808 年あたりを境に、ナポレオンの勢いは坂を転げ落ちるように崩れ落ちていきます。最終的に、ナポレオンはロクルムではないしても、セントヘレナという「島」で、惨めな死を遂げることとなりました。

ナポレオンに協力し、ロクルム島をベネディクト会から取り上げ、売り渡すことに貢献したドゥブロヴニクの貴族たち 3 人にも、ロクルムの呪いは容赦なく襲いかかりました。彼ら全員が、突然の投身自殺、海難事故による水死、召使の手による殺害と、連続して非業の死を遂げたのです。

しかも、それだけでは終わりません。その後にロクルム島を購入した大富豪にも不運が訪れます。島の購入直後に突如商運が傾き、破産。島は再び売りに出されることになったのです。

そしてこの時、ロクルム島を購入したのは、誰あろう、ハプスブルク家のマキシミリアン大公。そう、「悲劇の(メキシコ)皇帝」、マキシミリアンです。

皇帝に選ばれる前、マキシミリアンはたまたま訪れたロクルム島の美しさに魅了され、島を買い取ることにしました。彼はロクルム島全域を整備し、現在も残る植物園を作り、愛する妻と幸せな日々を過ごしました。しかし、この平和は長くは続きません。メキシコ皇帝に即位することとなったマキシミリアン大公はメキシコに渡り、3 年後、当時内戦状態にあったメキシコで処刑されました。

この悲報を受けた妻も精神を病み、非業の死を迎えます。所有者を失ったロクルム島はハプスブルグ家に引き継がれましたが、悲劇はこれでも収束せず、島の所有権を引き受けた王族は次々に悪運に巻き込まれていきました。実際、あまりの悪運続きに、ハプスブルグ家は一度はロクルム島を手放しています。

ロクルム島から見る旧市街

しかし、これを買い戻したのが、マキシミリアン大公の兄、フランツ・ヨーゼフ。そう。実質的なハプスブルグ帝国最後の皇帝、あのフランツ・ヨーゼフ I 世です(フランツ・ヨーゼフ I 世没後に即位したカール I 世が本当の最後の皇帝だが、ハプスブルグ帝国の崩壊に伴い、皇帝としての実績がないまま退位している)。

さて、フランツ・ヨーゼフ I 世に買い取られたロクルム島。ここを訪れ、すっかり気に入ったのが、彼の後継者ルドルフです。ルドルフは妻とともに島にしばらく滞在、この時はとても平和に過ごしたそうです。しかし、島を離れて間もなく、ルドルフは突然、愛人と心中を遂げました。

代わりに皇太子となったのはフランツ・ヨーゼフ I 世の甥、フランツ・フェルディナンド皇太子ですが、彼はサラエヴォで狙撃され命を失います。これがかの有名なサラエヴォ事件、第一次世界大戦の勃発の引き金となったあの事件です。そして、フランツ・ヨーゼフ I 世は、実質的にハプスブルク家最後の皇帝となり、ロクルム島はクロアチア(当時はユーゴスラヴィア王国)の所有物となりました。

なお、本来は「私欲のためにロクルム島を所有する」と呪われるはずですが、今では、島で夜を過ごすだけでも呪われると言われるようになっています。恐ろしい呪いを避けるため、最後のフェリーに乗り遅れないよう気をつけて、ちゃんと旧市街に戻ってくださいね!

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ロクルム島の歴史

ドゥブロヴニクの博物館所蔵の古い資料、および島からの出土品の調査結果によると、ロクルム島には先史時代から人が居住していたようです。ただ、はっきりと文書にロクルム島に関する記述が現れるのは上記の通り、1023 年になってから。この記録によると、現在も島に残るベネディクト会修道院の建立が始まったのが 915 年前後だそうです。

この修道院は当時、病院、救貧院も兼ねていました。ロクルム島はその後数世紀に渡り、厳格な規律を守るベネディクト会の管理下におかれます。

さて、ロクルム島はドゥブロヴニクの旧港を外海からガードするような、絶妙な場所に位置しています。当然、大航海時代のドゥブロヴニクにとって、ロクルム島は防衛上の最重要拠点の一つでもありました。そのため、ロクルム島の修道院には見張りの塔が置かれ、ベネディクト会修道士は、緊急時にドゥブロヴニク市に警告を出す任務も帯びていました。

 

時は流れて 1667 年。この地域を襲った大地震で、ドゥブロヴニクおよびロクルム島は壊滅的な被害を受けます。復興にむけて懸命な努力が続く中、ロクルム島のベネディクト会修道院の維持は、次第にドゥブロヴニクにとっての経済的な負担となっていきました。

最終的に、ドゥブロヴニク市は、資金難でベネディクト会修道院の維持が困難であることを法王に訴え出ます。これを受けた法王はロクルム島の土地を売りに出すこと許可、ロクルム島は 1800 年代に入って実売りに出されることになりました。

そして、島の運命が大きく動いたのが 1806 年。この年、ドゥブロヴニク共和国はナポレオン率いるフランス軍の奸計により制圧されます。続く 1808 年には共和国は廃止され、ナポレオン率いるイタリア帝国の併合されてしまいました。ナポレオンはロクルム島に長く滞在することはなく、ロクルム島はその後オーストリア・ハンガリー帝国の王室の所有物となります。そして、上述の通り、歴代の所有者には悲運が降りかかることとなりました。

その後、ドゥブロヴニク、そしてクロアチア全土は激動の時代に巻き込まれ、スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国、クロアチア独立国、ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国、そして現在のクロアチア共和国と激しい変遷をたどりました。ロクルム島はドゥブロヴニクと命運を共にしながら今に至ります。

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