ドゥブロヴニク旧市街: ロクルム島にまつわる伝説

ドゥブロヴニク旧市街から目と鼻の先、フェリーで 10 分ほどの場所にあるロクルム島
この小さな島には、島のサイズからは想像もできないほど、様々な歴史的人物にまつわる伝説・史実が数多く存在します。

今回は、そんなロクルム島にまつわる伝説をご紹介します。


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ロクルム島とは

ロクルム島は、旧市街の港の沖の、まるで港をガードするかのような位置にある、クジラっぽいシェイプの無人島です。

島内は自然保護区になっていて、いくつかの遺跡と植物園、公園、ビーチ、それに気持ちのいいレストランなど、見どころや気分良く過ごせる場所がたくさんあり、観光客だけでなく、市民の憩いの場所にもなっています。

のどかで平和な島なんですが、実は様々な伝説や史実に彩られた島で、なんと呪いまでかかっているため、ここで夜を過ごすことは禁じられていると言われています。


ロクルム島の歴史

ドゥブロヴニクの博物館所蔵の古い資料、および島からの出土品の調査結果によると、ロクルム島には先史時代から人が居住していたようです。

ただ、はっきりと文書にロクルム島に関する記述が現れるのは上記の通り、1023 年になってから。
この記録によると、現在も島に残るベネディクト会修道院の建立が始まったのが 915 年前後だそうです。

この修道院は当時、病院、救貧院も兼ねていて、ロクルム島はその後数世紀に渡り、厳格な規律を守るベネディクト会の管理下におかれます。
ただ、ベネディクト会がすべて好きなようにできたかというと、そういうことでもなく、当時のドゥブロヴニク共和国政府との間に、様々な約束事や決まりが設けられていました。

この背景にあるのが、ロクルム島の位置。
ロクルム島は、ドゥブロヴニクの旧港を外海からガードするような、絶妙な場所に位置し、サイズ的にも、船の運行は妨げないけれども、船団は入れないという、ちょうどいい大きさです。

キリスト教圏とイスラム教圏の境目に位置し、周囲をオットーマン帝国(オスマン・トルコ)とローマ帝国、ハプスブルグ帝国、ヴェネツィア共和国といった、権力争いを続ける大国に囲まれた都市国家、ドゥブロヴニク共和国にとって、ロクルム島は防衛上の最重要拠点の一つでもありました。
そのため、ロクルム島の修道院には見張りの塔が置かれ、ベネディクト会修道士は、緊急時にドゥブロヴニク市に警告を出す任務も帯びていたのです。

そのようなドゥブロヴニク共和国政府とベネディクト会修道院の協調の中、何度か他国との小競り合いの舞台となることはあったにしても、ロクルム島は全般的に安定した、平和な時期を長く送っていきます。

これに大きな変化が訪れたのが 1667 年。
この年、ドゥブロヴニク旧市街付近を震源とし、発生した大地震により、ドゥブロヴニク共和国、およびロクルム島は壊滅的な被害を受けます。
この時の地震、そしてその後の火事の被害は凄まじいもので、ドゥブロヴニク旧市街の大部分は崩壊、焼失。

ここまで、海運業をベースに巨万の富を築き、名だたる大国をむこうに回して互角に渡り合ってきた驚異の都市国家、ドゥブロヴニク共和国の経済は一気に悪化。
国力は二度とその最盛期の輝きを取り戻すことはなく、その後 100 数十年を経て滅亡することになります。

さて、この大地震後、復興にむけた努力が続く中、ロクルム島のベネディクト会修道院の維持は、次第にドゥブロヴニクにとっての経済的な負担となっていきました。

それでも 100 年ほどは持ちこたえたものの、ついに費用をまかないきれなくなったドゥブロヴニク共和国政府。
ロクルム島の売却を可能にするため、ベネディクト会修道院の維持が困難であることを法王に訴え出て許可され、ベネディクト会修道院の反対をよそに、ドゥブロヴニク政府が売却権をもつことになりました。

そして、島の運命が大きく動いたのが 1806 年。

この年、ドゥブロヴニク共和国はナポレオン率いるフランス軍の奸計により制圧され、政府は実権を剥奪されてしまいます。
続く 1808 年には共和国は廃止されてフランス帝国の一部(※イリュリア準州)に併合され、ここまで 450 年ほど続いてきたドゥブロヴニク共和国は滅亡してしまいました。

フランス軍は、ロクルム島を軍事上の重要拠点として接収し、ロイヤル要塞などを建築しました。
後述する呪いがロクルム島にかけられたのがこの時。

しかし、フランス帝国は長続きしなかったため、ロクルム島はその後、この地域の覇権を握ったオーストリア・ハンガリー帝国の王室の所有物となります。
ただ、呪い

が実際にきいたからかはわかりませんが、この先ずっと、歴代の所有者に不運がふりかかり、所有者が転々とする時期が続いていくことになるのでした。

オーストリア・ハンガリー帝国の支配も長くは続かず、世界は二度の大戦、そしてこの地域に関しては、ユーゴスラヴィアの建国と崩壊、紛争と、激動の時代に巻き込まれていきます。
ロクルム島はドゥブロヴニクと命運を共にしながらその時代を越え、現在はドゥブロヴニク大学の管理化に置かれ、再び平和な時をすごしています。


ロクルム島の伝説

ロクルム島は、島にまつわる数々の伝説でも知られています。

史実もあれば、根拠のわからない話もあるものの、こんな小さな島しては驚くほど、多くのエピソードがあることには間違いがないところ。
ここでは、特に有名なものをいくつかご紹介します。


ドゥブロヴニクの大火と聖ベネディクト

ベネディクト会修道院が初めて文書に表れたのは 1023 年のこと。

記録によると、これは、ドゥブロヴニクが突然の大火に見舞われ、大きな被害を被った年にあたります。
当時の建造物はほとんど木造だったため、ドゥブロヴニクでは、市街の大半が焼失する大惨事となったそうです。

そして、この大火が発生したのが 7 月 11 日、聖ベネディクトの日。
手がつけられない勢いで燃え盛る業火を前に、ドゥブロヴニク市民はなすすべもなくなり、この日の聖人である聖ベネディクトに鎮火を求めことしかできなくなってしまったと言います。

祈りが通じ、火事が鎮火した後、聖ベネディクトへの感謝を表すため、ロクルム島は、この更に 100 年ほど前からこの地で活動していたベネディクト会に寄贈されることになりました。


英国王、リチャード獅子心王とロクルム島

その勇猛さから、リチャード獅子心王と称えられた英国のリチャード I 世。
実は、彼は、ロクルム島に深いつながりのある人物なのです。

第三次十字軍に従軍し、帰還時にドゥブロヴニク沖を通過したリチャード獅子心王。
嵐に巻きこまれ、乗っていた船が難破してしまいます。

海に投げ出されたリチャード獅子心王は、神に助けを祈り、命が助かった場合は、最初についた陸地に教会を建立することを誓いました。
祈りの甲斐あってか、無事嵐を乗り切ることができたリチャード獅子心王。

彼が漂着し、最初に足を踏み入れたのが、他でもない、ロクルム島だったのです。

リチャード獅子心王は誓い通り、ロクルム島が属するドゥブロヴニク共和国に対し、教会建立の費用を提供を申し出ます。

しかし、当時、ロクルム島はドゥブロヴニクの一部ではあったものの、ベネディクト会修道院の管理下にありました。
提供された莫大な資金が、共和国全体ではなく、ベネディクト会のみを利することになってはいけないと、ドゥブロヴニク政府は一計を案じます。

ドゥブロヴニク共和国がたてた計画とは次の内容のもの。

  1. ロクルム島には、ドゥブロヴニク共和国の資金を使って教会を建てる
  2. リチャード獅子心王からの資金は旧市街内の大聖堂建設に充てる

これを提案し、英国の承認を得たドゥブロヴニク政府は、旧市街にドゥブロヴニク大聖堂を建設。
ロクルム島には、これよりずっと小規模な聖マリア教会が建てられました。
ロクルム島に建てられた聖マリア教会は、今も植物園の近くで見ることができます。

また、研究によると、史実として、リチャード獅子心王がドゥブロヴニクを訪れ、教会建設の資金を提供したのは本当にあった史実らしいです。

ただ、難破したかどうかの真偽は不明で、多額の資金がスムーズに短時間で実際に提供され、教会建築が始まっていることから推察するに、資金提供や用途などは、アクシデントの結果急に決まったようなものではなさそう。
おそらくなんらかの事前の取り決めに基づき、用意周到に行われたものである可能性が高い、とのことでした。


ロクルム島の呪い

緑豊かで美しく、市民の憩いの場所となっているロクルム島。
しかし、そんな姿とは裏腹に、ロクルムは、実は恐ろしい呪いのかかった島としても知られています。

この呪いがかけられる発端となった出来事があったのは、1808 年。
この年、ナポレオン率いるフランス帝国軍がドゥブロヴニクに侵攻し、その結果、450 年にわたって自治を守り続けてきた都市国家、ドゥブロヴニク共和国は滅亡しました。

この時、旧市街に侵攻したフランス軍は、旧市街だけでなく、このロクルム島も占拠。
そして、数世紀にわたってこの島を所有してきたベネディクト会に対し、ロクルム島からの退去を命じたのです。

当然、ベネディクト会はこれに反発。
修道士達は、あらゆる手を尽くしてロクルム島に残ろうとしました。
しかし、結果は実らず…。
努力は徒労に終わり、彼らは島を去ることを余儀なくされました。

そして、島を去る前の晩のこと。

ベネディクト会修道士達は、島内の聖マリア教会で最後のミサを行いました。
そしてミサの後、彼らは黒い修道服のフードを目深にかぶり、逆さに持ったろうそくから大地にロウを垂らしながら、一列になって島を 3 周し、島に呪いをかけたそうです。

「ロクルム島を私利私慾のために所有する者に災いあれ」と…。

その後、ロクルム島はベネディクト会の手に戻ることはなく、何人もの所有者を迎え入れることになりました。
しかし、所有者の多くが実際に悲劇劇な最後を迎えたため、ベネディクト会の呪いは、その後ずっと語り継がれる伝説となりました。

破滅の道を辿った人物のなかでも、特に有名なのが、ドゥブロヴニク共和国を滅亡させたナポレオン。

彼はロクルム島に要塞を建設し、しばらく滞在したそうですが、まさにこのドゥブロヴニク陥落の 1808 年あたりを境に、ナポレオンの勢いは坂を転げ落ちるように崩れ落ちていきます。
最終的に、ナポレオンはロクルムではないしても、セントヘレナという「島」で、惨めな死を遂げることとなりました。

また、ナポレオンに協力し、ロクルム島をベネディクト会から取り上げ、売り渡すことに貢献したドゥブロヴニクの貴族たち 3 人にも、ロクルムの呪いは容赦なく襲いかかりました。
彼ら全員が、突然の投身自殺、海難事故による水死、召使の手による殺害と、連続して非業の死を遂げたのです。

これだけでも伝説になるには十分だと思いますが、実際はそれだけでは終わりません。

フランス帝国の後にロクルム島を購入した大富豪にも不運が訪れます。
島の購入直後に突如商運が傾き、破産。
島は再び売りに出されることになります。

そしてこの時、ロクルム島を購入したのは、ハプスブルク家のマキシミリアン。
「悲劇の(メキシコ)皇帝」、マキシミリアンその人なのです。

皇帝に選ばれる前、マキシミリアンはたまたま訪れたロクルム島の美しさに魅了され、島を買い取ることにしました。
彼はロクルム島全域を整備し、現在も残る植物園を作り、愛する妻と幸せな日々を過ごしました。

しかし、この平和は長続きしませんでした。
メキシコ皇帝に即位することとなったマキシミリアン大公はメキシコに渡り、3 年後、当時内戦状態にあったメキシコで処刑されました。
この悲報を受けた妻も精神を病み、非業の死を迎えます。

所有者を失ったロクルム島は、そのままハプスブルグ家に引き継がれましたが、悲劇はこれでも収束せず、島の所有権を引き受けた王族は次々に悪運に巻き込まれていきました。
実際、あまりの悪運続きに嫌気がさしたハプスブルグ家は、一度はロクルム島を手放しています。

しかし、これを買い戻してしまったのが、マキシミリアン大公の兄、フランツ・ヨーゼフ。
そう。実質的なハプスブルグ帝国最後の皇帝、あのフランツ・ヨーゼフ I 世です(フランツ・ヨーゼフ I 世没後に即位したカール I 世が本当の最後の皇帝だが、ハプスブルグ帝国自体が崩壊したため、皇帝としての実績がないまま退位している)。

さて、フランツ・ヨーゼフ I 世に買い取られたロクルム島。
ここを訪れ、すっかり気に入ったのが、彼の後継者だった息子、ルドルフです。

ルドルフは妻とともに島にしばらく滞在、この時はとても平和に過ごしたそうです。
しかし、島を離れて間もなく、ルドルフは突然、愛人と心中を遂げました。

ルドルフに代わり、皇太子となったのはフランツ・ヨーゼフ I 世の甥、フランツ・フェルディナンド皇太子。
彼は、隣国ボスニア・ヘルツェゴヴィナの街、サラエヴォで狙撃され命を落としました。

そう、これがかの有名なサラエヴォ事件。
第一次世界大戦の勃発の引き金となった、あの事件です。

フランツ・ヨーゼフ I 世は、実質的にハプスブルク家最後の皇帝となり、所有者を失ったロクルム島は、クロアチア(当時はユーゴスラヴィア王国)の所有物となりました。
言ってみれば、やっとのことで、本来収まるべきところへ収まったわけですね。

なお、本来は「私欲のためにロクルム島を所有する」と呪われるはずですが、今では、島で夜を過ごすだけでも呪われると言われるようになっています。

…などと言うと、Youtuber の方などで、肝試し的なことを試す人がでてきてしまいそうですが、そういうことはやめましょう。

実際のところ、呪い云々はともかくとして、ロクルム島はドゥブロヴニク大学が管理を行っていて、海洋学や植物学などの研究も行われているため、一般公開されている場所と、されていない場所が存在します。

また、それを抜きにしても、上記のような伝説というのは、地元の人、当時の事件を家族が経験した一族の記憶として伝えてきている方たちにとっては、先祖が経験した苦難の歴史の象徴のようなもの。
ロクルム島の呪いも、他国により滅亡させられた自分の国が味わった苦難が少しでも報われるように感じる後日譚を、人々が語り継ぎ、その苦難の歴史にまつわる気持ちまで含めて大事に語り継いだからこそ残ったものなのです。

日本で言えば、戦没者記念碑などへ行って、「ここは心霊スポットです!」とおもしろおかしく騒ぎ立てるのとなんら変わりありません。

伝説は伝説のまま置いておくことで、守られていく気持ちや伝統もあります。
ここに住む皆さんの気持ちに対するリスペクトを持って、この素敵な島を楽しんでくださいね!