​ ミンチェタ・タワー: Minčeta Tower

​ ミンチェタ・タワー: Minčeta Tower

ドゥブロヴニクの城壁の北西、最も背の高い部分は「ミンチェタ・タワー: Minčeta Tower」と呼ばれる要塞になっています。「ミンチェタ」という名前は、もともとこの土地の所有者だったメンチェティッチ家にちなむものだそうです。

現在のミンチェタ・タワーは巨大な円形の要塞。ゴシック様式の冠を頂上部にいただき、眼下にドゥブロヴニク旧市街を睥睨する威風堂々たる姿は、難攻不落と言われたドゥブロヴニクの鉄壁の守りを象徴するようです。現在、この塔には城壁ウォークの途中で立ち寄ることができ、塔の頂上に出て、一番上から旧市街を見渡すことができます。


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ミンチェタ・タワーの建造と変遷

ミンチェタ・タワーが最初に建造されたのは 1319 年のこと。当初は地元の建築家、ニチフォル・ラニィナのデザインを採用し、現在の円形の姿とは大きく異なる、四角形の要塞だったそうです。

このデザインが変更され、現在の姿となる背景となったのは、ドゥブロヴニクと歴史、政治、経済など各方面に渡る深い関わりのあったビザンツ帝国(東ローマ帝国)に降りかかった悲劇。

ミンチェタ・タワー建造から約 130 年ほど経過した 1453 年のこと。ビザンツ帝国の首都、コンスタンティノープルはオスマン帝国によって攻撃され、陥落します。これをもって、紀元前、古代ローマ時代から連綿と続いてきたローマ帝国は完全に滅亡。

一時は栄華を極めたビザンツ帝国、そして首都のコンスタンティノープルは、これに先立つ 12 世紀ごろから徐々に衰退しつつはありましたが、国家の完全な滅亡という一大事は、周辺国家に大きな衝撃を持って受け止められました。


さて、この事態を重く見たドゥブロヴニク政府。フィレンツェから高名な建築家、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオを招聘し、城壁の強化プロジェクトに着手します。

ミケロッツォは、当時最先端の都市防衛技術の知識を活用し、元々の四角形だった要塞をそのまま内部に取り込む形で要塞を円形に作り直すことにしました。この新しい外側の壁は、6 m もの厚みを持ち、多くの銃眼を備えたもので、これにより、ミンチェタ・タワーは防御力と攻撃力を併せ持つドゥブロヴニク最強の要塞に生まれ変わることとなったのです。

さて、ドゥブロヴニクがこうして防衛力の強化に努める中、オスマン帝国は着々と版図を拡大していきます。1463 年には、ついに隣国ボスニアがオスマン帝国の脅威の前に陥落。城壁の強化プロジェクトも、これまでにないほどの急ピッチで進められることとなりました。


 

しかし、そんなさなかの 1464 年のこと、事態は新たな局面を迎えます。プロジェクトの中心人物だったミケロッツォが、ドゥブロヴニク市内の他の建築に関する提案を却下されたことに立腹。なんと、プロジェクト半ばで仕事を放棄し、突然にドゥブロヴニクを離れてしまったのでした。

ミケロッツォの協力を失ったドゥブロヴニクは、シベニクの大聖堂の建設を担当した建築家、ザダール出身のユライ・ダルマティナツを新たに迎え入れ、工事を続行することになりました。ダルマティナツは、ミンチェタを始め、ドゥブロヴニク市内の複数の要塞の建築、強化をリードし、その外観に大きな影響を及ぼしました。ミンチェタ・タワーの特徴となっている冠をつけたのもダルマティナツだそうです。

最終的に完成したミンチェタ・タワーは、9 つもの大砲を備えた、非常に攻撃性の高い要塞となりました。
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「美女」と呼ばれた大砲

ミンチェタ・タワーに備え付けられていた 9 つの大砲の中に、大きさ、完成度、美しさ全ての面で一際抜きん出た大砲がありました。このブロンズ製の大砲は、ルジャ広場にあるベル・タワーの鐘を作ったことでも有名な鋳造士、イヴァン・ラブリャニンの代表で、重量なんと 7 トンという巨大なものだったそうです。

数百年の時を経た 1806 年、ドゥブロヴニク共和国は、ナポレオン率いるフランス帝国軍の奸計により、フランス軍の侵入を許し、1808 年にはついに滅亡を迎えます。この時、ミンチェタ・タワーでこの大砲を見たフランス軍兵士は、その美しさに驚き、「美女」というニックネームをつけたという逸話が残っています。

さて、フランス帝国軍侵攻当時、ドゥブロヴニクはロシア・モンテネグロ連合軍からの攻撃にさらされ、長期にわたる包囲戦を強いられていました。驚くべきことに、中世に作られたこの物騒な「美女」は、この当時、まだ現役。この時の包囲戦においても、スルジ山に陣を構えたロシア・モンテネグロ連合軍への攻撃に利用されたそうです。

記録によると、この攻撃の最中に「美女」から打ち出された砲弾、たった 3 発で、ロシア・モンテネグロ連合軍側の大砲 2 台が破壊され、兵士 30 名が戦闘不能となったとのこと。この「美女」、数百年も前に作成されたとはとても信じがたい、強烈な、まさに桁外れの破壊力を持つ兵器だったことに間違いありません。

ただ、残念なことに、「美女」の終わりはあっけないものでした。フランス帝国軍に続いてドゥブロヴニクを支配したオーストリア・ハンガリー帝国の手により、この歴史的な大砲はウィーンに運ばれ、溶かされ、単なる金属として流用されてこの世からなくなってしまったのです。


イヴァン・ラブリャニンの手による大砲の中でも、この「美女」と、ロヴリェナツ要塞にあった「トカゲ」というニックネームの大砲は、兵器とはいえ伝説的な出来栄えだったそうです。そのいずれもが後世に残ることなく、かたや金属の材料として溶かされ、かたやアドリア海の海に沈められるという悲運にあってしまったことは、なんとも表現しがたい、とても残念なことです。

ただ、いくら美しいものだったとはいえ、大砲は武器という非業の道具。このような運命を辿ったということは、ある意味、私たち人間の業に対する戒めのようにも思えます。
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